アニメーション映画『この世界の片隅に』に怒りを覚える |
穂積剛 |
2025年10月 |

1)激しい怒りを覚えた映画
初見でこの映画を見た数年前のとき、激しい憤りを覚えたことを今でも記憶している。
あまりに強い怒りを覚えたので、もう二度と見たくないと強く思っていた。
しかしこのコラムの材料にしようと思い直し、今回改めて我慢して鑑賞し直すことにした。
今回見たのは『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』という長尺版であり、当初の劇場版に比べて40分間のカットが付け加えられたものだという。
そのためだったのかどうかわからないが、以前ほど強烈な怒りを感じなかったものの、見ていてやはり大きな疑問を覚えた。
そのことについて以下に記しておこうと思う。
ここではネタバレに配慮していないので、その点はあらかじめ了承してもらいたい。
なお、この映画の原作となった漫画の方については確認していないので、そのこともあらかじめ記載しておく。
2)映画のあらすじ
主人公の浦野すずは絵を描くのが特技の女性であり、1944年2月に北條周作と婚姻して広島から呉市に嫁いでくることになる。
この北條家ですずは、夫の周作の両親や、義姉で夫を亡くして出戻りの黒村径子、その娘の黒村晴美と生活するようになるが、呉市は軍港があることから米軍による空襲が頻繁に行われるようになっていく。
すずの兄の浦野要一は、1945年2月にニューギニアの戦線で戦死する。遺骨として戻ってきた骨壺に入っていたのは要一の骨ではなく、単なる石ころ一つだけだった。
周作は、軍法会議事務に従事する職員であるため徴兵は免れていたが、1945年5月からは軍人として兵役に服するようになる。もっとも、国内役務であり前線に出ることはなかった。
そうして1945年6月、義父の見舞いのため病院のある市内に出てきていたすずは、姪の晴美と一緒にいたところで米軍の爆撃に遭遇してしまい、晴美は即死、すずも右腕を失うという重傷を負ってしまう。
義姉の径子は娘を失ったことで半狂乱になり、晴美を連れて被害に遭ったすずに「人殺し」と当たり散らす。戦火が拡大し毎日の生活が苦しくなる状況で、家事に従事することもできなくなり、自分にとっての拠り所にもなっていた絵を描くこともできなくなったすずは、この「世界」に対して大きな疑念を抱くようになっていく。
夫の周作が遊郭の娼婦とのあいだで恋愛関係にあったのではないかと疑念を持つすずは、径子との関係でも罪悪感から居たたまれない思いに捕らわれるようになり、広島にいる年子の妹の浦野すみからの勧めもあって、広島の実家に戻ることを決断する。
その帰郷の予定日だった8月6日、すずは径子から「すずさんの居場所はここでもいいしどこでもいい。自分で決めえ」と言ってもらえたことから、北條家に残ることを決意する。しかしその直後、広島に原爆が投下され、すずは広島の実家の様子を見に戻ることもできなくなった。
こうして8月15日に玉音放送を聞いて、日本が敗戦したことが明らかとなる。すずはこれを知って激昂し家を飛び出し、今までの我慢と損失は何だったのかと泣き崩れる。そのときのすずの言葉は「最後まで闘うんじゃなかったのか」「まだ左手も両足も残っているのに」というものだった。そのときに背後で太極旗が掲げられ、すずが「海の向こうから来た米、大豆、そんなもので自分はできている。だから暴力にも屈しないとならないのか」と言葉を発する場面があった。
すずが夫の周作とともに広島を訪れたのは敗戦翌年の1946年1月で、そのときすずの両親はすでに死んでおり、妹のすみは存命していたものの原爆症の症状が現れていた。
広島市内で焼け野原となった惨状を二人で見ていたときに、原爆で母親を失い徘徊していた戦災孤児の少女と出会う。少女の母親は原爆で右腕を失ったあとに亡くなったことから、右腕のないすずのことを母親のように慕ってすがりついてしまい、結局二人で少女を北條家につれて戻ることとなる。ちょうど晴美と同じくらいの年齢の少女で、北條家ではこの少女を家族の一員として迎え入れるようになった。
以上が大まかなあらすじとなっている。
3)加害者視点の著しい欠如
この中でまず疑問を覚えたのは、日本が朝鮮を植民地化し中国や東南アジアを侵略した加害者であったという視点が、ほぼ欠如していることだった。
この物語の原作であるこうの史代の漫画は、2007年から2009年にかけて『漫画アクション』(双葉社)で連載された作品だったという。
戦後すぐの作品だったのならまだしも、この時期の作品なのであれば、侵略者である大日本帝国の実情をもっと書き込むこともできたはずではないだろうか。
そうした視線が極めて脆弱なのが、最初に気になったことだった。
関係があるとすれば8月15日の敗戦のあとの場面で、すずが慟哭した背後で太極旗が掲げられるシーンが出てくるだけに過ぎない。
しかもそのときのすずの言葉は、自分の身体が海外からの食べ物でできているから、だから暴力に屈しないとならないのかというもので、これだけだと太極旗の掲揚との関係がよくわからない。
その直前ですずは、「最後まで闘うんじゃなかったのか」「まだ左手も両足も残っているのに」と言っているから、ここでの「暴力」とは米軍の攻撃のことを指していると解すべきだろう。
そうするとこの発言は、《もっと闘い続けるべきだったのに、米軍の暴力に屈することになってしまい、だから日本国内で太極旗が掲揚される羽目になってしまった》という趣旨にも理解できる。しかしだとすればこの言葉は、本土玉砕の徹底的な抗戦を主張した、ゴリゴリの軍国主義者の発言のようだ。
ちなみにウィキペディアでの記載によれば、この場面で原作の漫画では《これまで他国を暴力で従えていたからこの国は暴力に屈するのか》との言葉だった(原作がそうだったのなら、少なくとも太極旗の意味はわかる)ものを、映画では《海外からの米や大豆で自分はできているから暴力に屈しないといけないのか》とのセリフに監督が変更したとの説明がなされていた。これが事実なのかどうか知らないが、その結果としてすずは極右軍国主義者みたいになってしまって、ますます意味不明になったものと言わざるを得ない。
いずれにしても、大日本帝国の時代の日本の戦争というものを描くときに、朝鮮や中国、東南アジアに対する侵略という視点は不可欠というべきであり、2016年に公開されたこの映画ですら、やろうと思えば盛り込むことが可能だった侵略者・加害者としての立場があまりに希薄すぎることに大きな疑問を覚えた。
4)「責任追及」視点の著しい欠落
しかし、そのことだけだったらこれほど強い怒りを覚えることにはならなかっただろう。
この8月の時期にテレビや新聞で数多行われる、日本が戦争で大きな被害を被ったというだけの、アジア諸国に対して甚大な被害をもたらした加害者としての立場を看過した、問題意識の欠如した被害者意識だけの底の浅い物語の一つという程度の感想しか抱かなかっただろう。
私がどうしても許せないと思ったのは、この作品の最後の部分だった。すなわち、広島の戦災孤児の少女を北條家が迎え入れ、最終的に養女として育てていくという終わり方の部分である。
これによって、この物語はハッピーエンドになってしまっている。
実の娘の晴美を失った義姉の径子にとって、この少女は晴美と同じように大切な存在となっただろう。それによって北條家の家族にとっても生きる希望ができ、すずも周作とともにこの家にいることのできる居場所を作れることになった。そうしてそのことによって、この一連の出来事で起きた悲劇の原因に対する責任追及を曖昧にさせ、本当に責任をとるべき当時の為政者の責任を見せなくさせているのである。
前述したように敗戦時のすずの発言は、「最後まで闘うんじゃなかったのか」「まだ左手も両足も残っているのに」というものだった。純粋であるがゆえに「一億玉砕」を信じていて、だから闘い続けるんじゃなかったのかと慟哭したものだったが、そこまで強い思いが裏切られたというのなら、その裏切りの反動がどう扱われるのかが重要ではないかと思って鑑賞していた。しかしそれについては、その後の話では完全にスルーされている。
そもそも、すずの実兄の浦野要一がニューギニア戦線で戦死したのは誰のせいなのか。
黒村晴美が米軍の爆撃で即死し、すずが右腕を失って絵も描けなくなったのは誰のせいだったのか。
義姉の径子が実の娘を失って悲嘆の底に落ち込まされたのは、誰の責任だったのか。
直接的には米軍による市民に対する無差別の殺傷行為だが、そのような状況に至らしめた当時の為政者の責任こそ極めて重大ではなかったのか。
原作では申し訳程度とは言え、敗戦時に朝鮮人を大日本帝国が「暴力で従えとった」ことに気付いたのなら、そのような状況を作出した当時の為政者、特に天皇制軍国主義の責任を少しでも追及したのか。
この映画は、本来であればどこまでも徹底的に追及されるべきこの悲劇の責任を、原爆の戦災孤児の少女を養女とすることで家族が円満となり、すずも北條家での居場所を見つけるというハッピーエンドにすることで、すべて免責してしまっている。そして、あたかも侵略戦争の結果として引き起こされた被害を、地震や雷のような天災と同じだったかのように相対化してしまい、真の責任者に対してなされるべき責任追及の問題を、視聴者の思考の埒外に追いやってしまっているのである。
こうして、この国で毎年8月に合唱される、「戦争は絶対にしてはいけない」という歪んだ考え方が醸成されていく。
この責任追及の相対化・曖昧化が、私にはどうしても許せなかったのだ。
5)「戦争=悪」論の誤謬
前から何度も強調していることだが、悪かったのは「戦争」なのか。
「戦争が悪」だから、戦争を止めればいいのか。
だとすれば中国は、日本軍から侵略されても抵抗しなければよかったのか。
八路軍や国民党軍が抵抗しなければ、「戦争」になどならなかった。では中国国民は、日本軍に侵略されるがままにしておけばよかったのか。
そんなバカな話がある訳がない。
八路軍や国民党軍が天皇の軍隊からの侵略に抵抗し、その結果として「戦争」になったことは間違いなどではなかった。
悪いのは「戦争」ではない。明確に悪だったのは「侵略」をした大日本帝国と日本軍だったのであって、「戦争」などではない。諸悪の根源は「天皇制軍国主義」及びその思想に基づくアジア「侵略」だったはずである。
こんな単純明快な理屈について、この国のテレビや新聞では毎年毎年誤魔化し、まるで「戦争」自体が悪かったかのように国民を洗脳し続けている。その結果として、真の責任者に対する責任追及の問題に矛先が向くことを回避し続けている。
6)「戦争=天災」観への貢献
こうした歪んだ「洗脳」とまったく同じ構図の「戦争=天災」論で話をまとめてしまった点が、この映画で私が一番許せなかったことだった。
この映画が「善意」で製作されたことがわかるだけに、なおさらその感が強い。せめて、ハッピーエンドになどすべきでなかったのである。
実の兄を前線で失い、大切な姪の晴美を失い、自分のよすがであった絵を描くための右腕を失ったすずが、本当の諸悪が何だったのか、本当に責任を負うべき存在が何だったのか、それに対する怒りに目覚めていくような内容だったら、どれほどマシだったか。
この点では、同じように原爆での悲劇を描きながら、朝鮮人や中国人に対する侵略者としての位置付けや、南京大虐殺など天皇の軍隊が行った数多の残虐行為、さらに日本国内が当時どれほど狂った状況にあったのか、「愛国者」を名乗る連中の正体がどういうものだったのかを徹底して描いていた「はだしのゲン」の方が、はるかによかったと思う。
7)敗戦後80周年の年に
残念ながら出席することが適わなかったものの、今年9月には遼寧省撫順市での平頂山事件の93周年記念式典が開催された。
1932年9月16日に、天皇の軍隊である日本軍(関東軍)が、平頂山集落の住民3000人を老若男女を問わず機関銃と銃剣で集団殺戮し、崖にダイナマイトを仕掛けて遺体を隠蔽した事件である。日本軍の中国侵略の初期に起こされた象徴的な事件であった。
大日本帝国と天皇の軍隊は、何よりも侵略者・加害者だったのであって、日本国民は被害だけを受けたのではない。
侵略行為・加害行為は国外で行われていたので、当時の国民は知ることが難しかったという問題は確かにあった。しかし、被害を訴える前にまず加害者としての侵略責任を追及するのが物事の順序ではないのか。朝鮮や中国などのアジア諸国との関係では、そのことを絶対に忘れてはならない。
今年は敗戦後80周年の記念の年だった。
その年に、国内では大日本帝国の加害責任に触れること自体が、ほとんどできていないのが実態となっている。
逆に極右政党・極右政権の伸長が危惧される国内情勢となっているが、こうした「善意」の映画ですら、実際にはこの状況に加担しているようにしか私には見えない。
このままではこの国がどこに行ってしまうのか、「真の愛国者」を自称している私としては、心底から心配せずにいられないのである。
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