「夫婦別姓」は「選択の自由」の問題なのか
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後藤 富士子 |
2025年7月 |

1.「別姓を選べないのは日本だけ」と言うけれど・・・
「選択的夫婦別姓」制度の法制化を推進する論拠の一つとして、「別姓を選べないのは日本だけ」という声を耳にする。でも、それは全く不正確である。夫婦別姓の中国や韓国では、「別姓を選んでいる」のではない。絶対的に夫婦別姓であり、逆に「同姓を選べない」のである。
また、「選択的夫婦別姓」の法制化について、「別姓も同姓も、どちらでも選べる」制度という言い方もされる。そこでは、「選択肢がある」ことが「多様性」に紐づけされる。
このことを考えると、「選択的夫婦別姓」の法制化が困難であることの本質が見えてくる。それは、意外なことに、「家父長制」が障壁になっているのではなく、「法の自律性」を承認しない後進性が陥穽になっている。
「別姓も同姓も、どちらでも選べる」制度を法制化することは、形式論理的にはあり得る。でも、その法制の理念や原理原則は何なのか問うと、「透明」というか「白地」というほかない。個人の選択に委ねられる法制は、「家父長制」と無縁なだけでなく、「白地立法」という脆弱性を免れない。
2.「結婚によって氏の変更が強制されない」制度の法制化
現実には9割を優に超える夫婦が、夫の氏を称する結婚をしている。この現実から、「夫婦同姓の強制はジェンダー問題」と言われたりする。国連の女性差別撤廃条約の関係でも、その見地から是正勧告がされている。
しかし、「選択的夫婦別姓」制度になっても、別姓夫婦が多数派になるとは考えにくい。それは、旧姓に拘る女性が必ずしも多数派ではないことに由来する。「家父長制」を結婚の段階で云々するけれど、そもそも自分の旧姓は父の氏ではないかと考えると、そんなことに拘ることは面倒なだけである。一方、現実の「不利益」は、「家父長制」などという観念的なものを尻目に、男性にも女性にも襲い掛かる。結婚による氏の変更に伴い、変更した配偶者は、男女を問わず、様々な手続を強いられる。それは、単に煩雑なだけでなく、高額の金銭負担を強いられることさえある。妻の氏を称する結婚をしたサイボウズの青野氏は、保有株式の名義変更で莫大な手数料をとられたという。
そうすると、男女を問わず共通して利益となるのは、「結婚によって氏の変更が強制されない」制度である。それは、夫婦別姓が原型であり、同姓を選択できる「選択的夫婦同姓」制度ということになる。別姓が原型だからといって、多数派になるとは限らない。同姓を選択する夫婦が多数派になることも十分あり得る。それは、子の姓が父母と同じでないことに対する抵抗が大きいからである。ちなみに、離婚によって妻である母が旧姓に復した場合、親権者が母であっても子が氏の変更を望まない場合に備えて、母が離婚時に称していた氏を称することができるようになっている(民法767条2項)。
3.別姓夫婦と「子の氏」
法制度として熟慮する必要があるのは、夫婦が別姓の場合の「子の氏」である。この問題こそ、家父長制が色濃く顕在化する。韓国でも、中国でも、子と同姓になれない母が絶対的多数である。その事態を避けるために「選択的夫婦同姓」制度があればいいのではないかと、他国のことながら、私は思う。
現在、法案の形で提起されているのは、「結婚時に子の氏を決める」というものである。これは、子を独立の人格として尊重しない、とんでもない法案である。最低でも、「子が生まれた時に子の氏を決める」こととし、さらに、子の自己決定(選択の自由)を保障することである。そうすれば、夫婦だけでなく、子どもも、「夫婦同姓」「夫婦別姓」の問題を、親子法の中でも熟慮することになり、「共同子育て」の内実も進展すると思われる。
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