追悼 スティーブ・ジョブズ
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穂積剛 |
2012年1月 |
2011年10月5日にスティーブ・ジョブズが亡くなりました。一面識もない人物ですが、これは本当にショックな出来事でした。私のような『元祖マイコン少年』の世代には、「アップル」と「スティーブ・ジョブズ」に特別の思い入れがあったからです。
私がコンピューターに興味を持つようになったのは、中学校1年生のころからでした。講談社のブルーバックスシリーズで出ていたコンピューターの本を熱心に読み、創刊したばかりの雑誌『ASCII』を毎号買ってはプログラミング言語の「BASIC」の勉強をしていました。マシンもないのにノートにプログラムを書き、実際に走らせたらこれがどう動作するのか夢想してばかりいました。
そんな雑誌『ASCII』に毎号出ていたのが、『AppleU』というパソコンの宣伝です。コンピューターと言えば基盤丸出しの『TK−80』とか、愛想のない『TRS−80』、コモドールの『PET2001』とか不細工なものしかなかった時代に、スポーツカーのように洗練されたスタイルと美しいベージュ色の筐体を持ち、斬新だった虹色のAppleのマークを付け、当時としては卓越したスペックを誇っていたこの『AppleU』というマシンは、本当に憧れの対象だったものです。世界的に流行ったインベーダーゲームがカラーで動作できるのも、当初はこの『AppleU』だけでした。
中学校2年生のときに美術の授業で、「七宝焼き」を作るというのがありました。そのときに私が作ったのが、当時のアップル社の虹色ロゴマークです。金属の丸い下地の上に6色の釉薬でアップルのロゴを再現し、この作品を焼いてペンダントにしました。これをしばらく自室に飾っていたほど『AppleU』は憧れの的だったのです。
高校に入学したお祝いに、両親に買ってもらったのがNECの名機『PCー8001』でした。当時の値段で16万8000円もして、別売りモニターでさらに10万円近くした高額品で、両親がよく買ってくれたものだと今になって思います。これに雑誌のゲームプログラムを打ち込んだり、自分でテニスゲームをプログラミングして遊んだりしていました。それでも本当にほしかったのは『AppleU』だったのですが、本体だけで32万8000円するという価格でしたから、とても手が出なかったのです。
この当時から、スティーブ・ジョブズとスティーブ・ウォズニアックというアップルの伝説的創業者の話は、『マイコン少年』にとって有名でした。アジアの片隅の日本でのコンピューターおたくたちでも、スティーブ・ジョブズの名前をこの頃から神のように語っていたものです。その後、確か私が大学生のころ、スティーブ・ジョブズがアップル社から離れ『NeXT』社を創業したニュースが流れたのを記憶しています。
『AppleU』の後にアップル社が発売した『Macintosh』も、やはり相当の高額商品で簡単に手に入れられるようなマシンではありませんでした。そのため私が大学進学後に購入したパソコンは、エプソン製の「PC/AT互換機」でした。
大学卒業後はIBMに入社してしまったため、ますますアップルとは遠ざかってしまいました。けれども、1995年にWindows95が爆発的に広まったとき、パソコン画面上でフォルダをウィンドウで広げ、その中のファイルをマウスで扱うという現在の「WYSIWYG」スタイルを編み出したのがアップル社であり、マイクロソフトはその物真似をしているだけだというのはわかっていました。
ですから、1997年に私が弁護士になってから、最初に買うことにしたのがアップルの『PowerPC』だったのは自然な流れでした。経済的にも少し余裕ができましたし、弁護士は基本的には一人で仕事をしますから、初めて自分の好きなコンピューターを買うことができたのです。
ちょうどそのころに、アップル社にスティーブ・ジョブズが戻ってきていました。そして発表したのが、あの有名な半透明の一体型マシン『iMac』です。コンピューターを家電のように親しみやすくしようとのコンセプトでジョブズが出したマシンで、あのボンダイブルーの初期型をさっそく私も購入して仕事に使っていました。
けれども障害となったのは、MacOSとWindowsとの間にある「機種依存文字」の問題です。機種依存文字とは、「@」とか「V」とか「?」「梶vなどの文字のことです。弁護士として一人で仕事をしている分にはいいのですが、弁護団で仕事をしているとどうしても作成した書面のやりとりが発生します。そのときに、マックとウィンドウズとの間で互換性のないこれらの「機種依存文字」は、相手の方では文字化けして単なる「・」として表示されてしまうのです。そして裁判所に出す書面というのは、こうした文字をよく使う文章を作成するものです。
マッキントッシュ上で動作する「Virtual PC」というソフトを使ってWindows95(98だったか?)を仮想で使ってみたこともあります。けれどもこれは、ソフト的にWindowsの動作環境を提供するというもので、遅くて使い物になるようなレベルではありませんでした。そのため、2000年に泣く泣くWindowsマシンに切り替えたのです。
その後はアップルとは離れていました。アップルは好きなのですが、手にする機会がなかったので横目でにらんでいた程度でした。
別の形でアップルに触れることになったのは、たまたまiPodを入手してからです。iPodに内蔵されていたランダム音楽再生機能「シャッフル」を体験したとき、これまでにない新鮮な音楽の楽しみ方であるとともに、アップルらしい独創的なアイディアだと改めて感心させられました。持っているだけで嬉しく思わせるようなアップル製品の伝統は、まだまだ続いているのだと実感しました。インタフェースを可能な限りシンプルにしようとするコンセプトも相変わらずだと思いました。
2008年のリーマンショックのあとしばらくして、外国人の解雇事件など労働事件を多数手がけていた時期がありました。そうした外国人の方々が、ほとんど例外なくみんなiPhoneを使っているのが印象的でした。それも実に楽しそうに。これを見ていて私も、次に携帯電話の切り替え時期が来たときには、iPhoneを購入しようと決めたのです。
こうして、2010年7月にiPhone4を購入したという次第です。これがどれほど便利で楽しいものか、それは多くのみなさんがすでにご存じでしょう。私が感心したのは、やっぱり持っているだけで嬉しくなるようなアップルの特質は健在だということでした。
今でもアップル社といえば、私はこの『AppleU』を思い出します。憧れの的であり、持っているだけでワクワクして誇らしく感じるようなコンピューター、それがこのマシンでした。その後、iMac、iPod、iPhoneとアップルを使い続けてきて、このワクワク感は健在だと感じました。それを成し遂げているのが、スティーブ・ジョブズという突出した人物の存在だったのです。
ジョブズが亡くなって、ベストセラーになった『スティーブ・ジョブズ』の評伝を私も読んでみました。そうしたら、私の知らないことがたくさん書かれてあって驚かされてしまいました。
ジョブズとウォズニアックが「ブロック崩し」作成に関与していたこと、アニメーション映画で多数のヒットを飛ばした『ピクサー』(「トイ・ストーリー」「バグズ・ライフ」「モンスターズ・インク」「ファインディング・ニモ」「Mr.インクレディブル」「カーズ」「WALL・E」等々)を成功させたのがスティーブ・ジョブズだったこと、実はiPodの最大の成功要因はジョブズがネットでの音楽販売を音楽各社に承諾させたことだったことなどです。
中でも一番感銘を受けたのは、良い製品を産み出すためにジョブズが傾けた情熱のすごさです。
ジョブズは消費者に、アップルの製品を手にすることで嬉しくさせること、持っていることが誇らしく感じるようにさせたいのです。そうした商品を作ることにジョブズが徹底してこだわっており、だからすごいスペックの商品を求めるので、値段も高くなってしまうのでした。持っている人を嬉しくさせるためには、もちろんデザインも重要です。ですからアップルの製品は、スペックがあってデザインを決めるのではなく、最初にデザインがあってその中にジョブズが求める機能を詰め込もうとします。こうしたデザインや機能だけでなく、所有者にわくわくしてもらうためにジョブズは、ブランドイメージはもちろん、商品の外箱にまでこだわり抜いています。
ジョブズにとって商品は、考え抜かれ完成された芸術品なのだとわかりました。極限まで完成度を高めたその芸術作品を、どこの馬の骨ともわからない奴にいじくり回されて完成度を損なわせることをジョブズは許すことができません。だからジョブズは自社のOSを自社のハードウェアだけに載せてコンピュータを販売し、他社からMacOS互換機を発売させることを許しませんでした。そのせいでWindowsのようにシェアを伸ばすことはできませんでしたが、シェアを伸ばして儲けを多くするよりも、完成度の高い良い製品を生み出してそれを使ってもらうことの方が、ジョブズにとってはずっと重要だったのです。
ジョブズの評伝を読んでみると、ジョブズが利益を目的に仕事をしたことなどないことがわかります。アップル社に戻ってきてから、CEOなのに年俸たった1ドルしか受け取っていなかったのは有名ですが、会社経営においても、本当にいい商品を作っていれば売上は自ずから上がるものだと確信していたようです。
アップル社がマーケティング調査をしないことについて、ジョブズは「欲しいものを見せてあげなければ、みんな、それが欲しいかなんてわからないんだ」と述べていました。ジョブズが1982年に当時ペプシ社のCEOだったジョン・スカリーをアップルに引き抜いたとき、ジョブズは「一生、砂糖水を売り続ける気かい? それとも世界を変えるチャンスに賭けてみるかい?」という超有名な台詞を発しました。おそらくジョブズには、私たち凡人とは違って明確な未来がよく見えていたのだと思います。だから本当に良い製品というのが見えていて、それを実現できれば「世界を変えられる」ことがわかっていたのでしょう。
ジョブズは高い完成度を目指すがゆえに、MacOS互換機を認めることはしなかったので、Windowsのようにシェアを獲得することはできませんでした。けれども完成度の高い製品を産み出すことに情熱を傾け続けた結果、iPod、iPhoneそしてiPadと立て続けにヒット商品を連発し、ついに世界でもっとも企業価値の高い会社にまでアップルを成長させることに成功しました。
ジョブズが亡くなったとき、オバマ大統領は「彼の訃報を彼自身が生み出した機器でこれだけ多くの人が知ったという事実が、Steveに対する最大の賞賛かもしれない」とコメントを出しました。確かにこれは本質を見抜いた表現で、ジョブズはそれだけ世界を大きく変えることに成功したのです。街でiPhoneやiPod、iPadを使っているたくさんの人を見るたびに、ジョブズが本当に世界を変えてしまったことに私も驚かされます。
私たちのような凡人には、ジョブズのように偉大な業績を残すことはもちろんできません。
けれども少なくとも一つはジョブズから学べることがあると思います。それは、情熱を傾けて良い仕事をしようとしていれば、結果はあとからでも付いてくるのではないかということです。もっと言うと、仮に結果が付いてこなかったとしても、情熱を傾けよい仕事をする努力を続けることが重要だということです。このことを念頭において、これからも私は依頼者のために仕事を続けていきたいと思っています。そしてこれを、かつての『元祖マイコン少年』のスティーブ・ジョブズに対する追悼の言葉にしたいと思います。
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