灼熱の熊谷支部決死の千里行
【その1】 |
鈴木 周 |
2012年7月 |
わたくしは、今年の8月1日もしくは2日に、関弁連の取材で熊谷の裁判所に行ってくることになっている。「熊谷支部は日本一暑くて大変そうだから、一番暑い時期に行って満喫したい」というだけの理由で4人ゾロゾロ行くのだから、地元の弁護士さんには失礼極まりない話だ。が、熊谷市は「あついぜ! 熊谷!」などとポスターなど作り、暑苦しさを逆に誇りに思ってるフシもあって、実は行ってみたら大歓迎、女子高生と一緒に記念撮影、ということも考えられなくもない。
寄稿文のタイトルは、「灼熱の熊谷支部 決死の千里行」で、関弁連だよりの10月号と11月号に掲載予定だ。なのに先にコラムに載せていいのか?とも思うが、著作権はわたくしにある上、どうせ弁護士は誰もわたくしのコラムなんか読みゃしないだろうから、載せたって同じだろう。
で、まだ、行ってないので、今回のコラムはリード文だけの前篇となる。
〜灼熱の熊谷支部 決死の千里行〜
1933年7月25日、フェーン現象で暑気の集中した山形市において、40.8度が記録された。これは大正時代、東京で熱帯夜が年3日しかなかった頃の話である。この記録は70年以上もの長い間、日本の気象記録史上の最高記録として君臨し続けていた。金田の400勝とまでは言わないが、張本の3087本くらいの価値はあるであろう、乗り越えがたい大記録として認知されて来た。
しかし、不滅の張本3087本も、現代のスーパースターイチローに並ぶ間もなく抜き去られたように、どんな大記録も塗り替えられる日が来るのだ。
2007年8月16日、熊谷市、40.9度。この日ついに日本記録が塗り替えられた。70年以上たって温暖化が叫ばれるようになってもたった0.1度だから、山形の記録はいかに突出していたか理解できよう。
ちょうどこの日、私は、熊谷市のすぐ北、実家の藤岡市に帰省していた。お昼に家族とお婆ちゃんを連れてバーミヤンに行き、駐車場に降り立った途端、照り返しもあったのだろうが「うお、アチチー、何じゃこりゃ?」とビックリ仰天した。それは暑くて不快というものとはちょっと違い、ビリビリと体全体をくまなく刺激するような不思議な感覚で、あたかも初めてサウナに入った少年のように、「なんと世の中こんな暑くなるものなのか。」と単純に驚いたのである。と同時に、「熊谷支部の弁護士さんは、こんな日は一体どうしてるんだろう。背広着てるんだろうか。大変ご苦労なことだ。」と思い、「いつか、一番暑い時期に熊谷支部に行ってみたいものだよ。」とも思ったものだった。
これは日本一探訪の旅であるから、いわば富士登山のようなものである。灼熱の熊谷支部に向かうのは富士山登頂と同等の価値があるのだ! とやや強引に持論を展開し、同行者を募ったものの、案の定誰も手を挙げてくれないまま5年が無為に経過した。ところが、先日、関弁連の飲み会で、かかるプランを開示したところ、「おー、そりゃ面白い。是非行ってきて寄稿してくれ。でも自腹で行ってね。原稿料もタダね。」ということになり、10月号の端っこに紙面が用意されたことから、たとえ単独行であっても登頂、じゃなかった登庁しなければならないことになった。
このような事情を開示し、再度真摯に頼み込んだところ、関弁連編集の西岡毅氏、友人で二弁の山本純一氏、そして東京地裁ロビーで声を掛けた傍聴芸人阿曽山大噴火氏の、総勢3名の隊員が応じてくれた。もちろんいずれの氏も、断りきれず、「しょうがない」と諦め、嫌々参加を表明したものである。
日程は4人で合わせ、決行日を8月1日(水)、予備日を2日(木)とした。予備日を設けたのは、雨でも降って涼しくなっちゃったら台無しだからである。それに雨降った翌日であれば、蒸し蒸しして条件が良化することも考えられる。
スケジュールは、午後1時頃東京駅に集合、地下のグランスタで弁当を購入して上越新幹線に乗車、後でぶっ倒れると困るのでビール禁止、約40分で熊谷駅到着後、駅北口のミストシャワー前で記念撮影、その後タクシーで熊谷支部へ、阿曽山氏に合わせて刑事の法廷傍聴、帰りに風呂屋に寄って汗を流し、駅前の居酒屋で痛飲して帰京、という綿密で一分の隙もないものである。
探検隊の筈が新幹線で行っていいのか、という疑問は当然あり、また駅からタクシーなので暑さを堪能するまでもなく5分やそこらで着いてしまう、という致命的な欠陥もある。「それじゃ、『決死の千里行』どころか『快適半里行』だろうが。富士山頂にヘリで降りるようなもんだろうが。」という向きもおられよう。…うう、我ながら鋭い突っ込みで返す言葉もないが、無理に歩いて熱中症になっても大変なので、健康優先ということでご理解頂きたい。
その代りと言ってはなんだが、隊長である私はドレスコードを考え、隊員たちに「当日は黒のスーツにネクタイ着用で来るように。」と通達した。当然、「うへー、なんだそれー、勘弁してくれよー。」という怨嗟の声が湧きあがったが、何しろ日本一であるからそれなりの敬意をもって接するのが礼儀であろう、富士登山には山ガールみたいなヒラヒラした格好は相応しくなかろう、ということで不満の声は無視することとした。かのコロンブスも隊員の不満をなだめすかして偉業を達成したのだ。私はそう自らを鼓舞し、来るべき8月1日に思いを馳せたのだった。
〜 灼熱の熊谷支部決死の千里行【その2】へ続く 〜 |