「邪悪」な存在としての個人と国家 |
穂積剛 |
2019年3月 |
1. 平気でうそをつく人たち
弁護士という仕事をしていると、平気で嘘をつく類いの人間に日常的に接することがある。
こうした類いの人間は、それが嘘であることを動かぬ証拠によって突きつけられるまで、平然と嘘をつき続けて恥じるところがない。というよりも、動かぬ証拠を突きつけられてなお、何食わぬ顔をして嘘をつき続けることも珍しくない。あるいは、立場が悪くなると平気で主張を変遷させて、以前とは矛盾した主張を展開して言い逃れし続けていることも実によくある。
こうしたなかでよく経験するのは、不当な手段を使ったと相手を攻撃していた本人が、実際にはまったく同じかそれ以上の不当な手段を行使していたというケースである。
例えば配偶者のDVや児童虐待を主張していた当人こそが、実際には見紛うことなきDVや児童虐待をやっていた張本人だった事例がある。
あるいは、ある人物が捏造をしたと攻撃している本人こそが、実際には捏造をやっていたことが明らかになるという事例もあった。
こうしたことを重ねて体験するので、どうしてこういう人たちには奇妙な共通点があるのかと、私は以前から疑問に思っていた。
そうしたときに、何の気なしに手にした本が『平気でうそをつく人たち――虚偽と邪悪の心理学』(M・スコット・ペック著、草思社)であった。著者はアメリカの精神科医・医学博士で、1983年に初版が発行された書籍の翻訳である(なお、後述するように仮にこの本を入手しようとする場合には、中古本を購入することを強くお勧めする)。
これを読んで驚かされた。ここには、人間の「邪悪性」というキーワードを中心として、「DV夫」や「ネトウヨ」といった連中の精神的異常性を、まさに浮き彫りにするような解説がなされてあったからだ。
2. 「邪悪な人間」の定義
著者によれば邪悪な人間とは、次のような特性を備えているのだという。
「自分には欠点がないと深く信じ込んでいるために、世の中の人と衝突したときには、きまって、世の中の人たちが間違っているためそうした衝突が起こるのだと考える。自分の悪を否定しなければならないのであるから、他人を悪と見なさざるをえないのである。自分の悪を世の中に投影するのである」
「邪悪な人間は、自分自身の欠陥を直視するかわりに他人を攻撃する。精神的に成長するためには、自分自身の成長の必要性を認識することが必要である。この認識をなしえないときには、自分自身の不完全性の証拠となるものを抹殺する以外に道はない。」
「邪悪な人間は、自責の念――つまり、自分の罪、不当性、欠陥にたいする苦痛を伴った認識――に苦しむことを拒否し、投影や罪の転嫁によって自分の苦痛を他人に負わせる。自分自身が苦しむかわりに、他人を苦しめるのである。」
「邪悪な人間の特性として、他人を道徳的に邪悪であると批判することがあげられる。自身の不完全性を認識できないこうした人間は、他人を非難することによって自分の欠陥の言い逃れをせざるをえない。また、必要とあれば正義の名において他人を破滅させることすらこうした人間はする。」
3. 邪悪な存在の犠牲者
このように邪悪な人間の存在のため、もっとも犠牲になりやすいのが家庭であり、特に子供なのだという。
このことについて著者は、次のように指摘している。
「親の愛に著しい欠陥があるときは、子供は、その原因が自分自身にあると考えて反応する可能性がきわめて高く、そのため、非現実的なまでに否定的な自己像を身につけるようになる」
「子供が親の著しい悪に直面したときには、ほぼきまって、その状況を誤って解釈し、その悪は自分自身のなかにあると考えてしまいがちだ。」
そのため邪悪な人間の存在によるシワ寄せは、家庭での子供の症状として表れてくることが多い。
しかし著者によれば、根本的な治療が必要なのは子供のほうではない。
邪悪な人間にこそその原因があるのであり、むしろ子供の治療のためには邪悪な存在から子供を引き離す方が重要となる。
このことについては、DV被害を受けた被害者たちの経験からすれば、身に覚えがある場合も多いだろう。
4. 精神的に成熟した健全な人間
著者によると、邪悪な人間が自分自身の完全性に異常に執着し、「自分には欠点がない」と信じ込んでしまうことができるのは、一因として成長過程において問題のある育成環境にあったことから、「幼児性ナルシシズム」を克服することができないまま、成人となったことが関係している可能性があるという。このナルシシズムの問題が、人間の邪悪性の発現と密接に結びついているとするのが著者の見解である。
精神的に健全な人間であれば、他人にたいして批判をする前に、まずは自分の方に問題がなかったかどうかを自省するものである。また精神的に健全な人間は、まずは事実(真実)を尊重して、自らが事実だと思っていたことが事実でないことが明らかになった場合には、そのことを率直に認めたうえで、翻って自分自身の考え方を検証しようとするものである。
「健全な大人であれば、自分が真実であってほしいと望んでいるものではなく、真実であるものと信じる。」
ところが邪悪な人間のやることは、これと正反対となる。邪悪な人間は、自分の非を認めることを何よりも拒絶する。それは自らのナルシシズムを傷つけることになってしまうからである。
「精神的に健全な人は、程度の差こそあれ、自分自身の良心の欲求するものに従うものである。ところが、邪悪な人たちはそうはしない。自分の罪悪感と自分の意志とが衝突したときには、敗退するのは罪悪感であり、勝ちを占めるのが自分の意志である。」
「道徳的判断に潜在的にひそむ悪を知っていたキリストは、道徳的判断をつねに避けるべきだと言ったわけではなく、まずその前に自己浄化が必要であると説いたのである。これが邪悪な人間に欠けているものである。彼らが避けるのは自己批判だからである。」
最後のキリストの言葉にもあるように、ここでは自己批判の順序が重要になる。精神的に成熟した健全な人間であれば、自分自身にたいする自己批判が先であり、それを行ってからこそ、他者にたいする道徳的判断も可能となる。ところが邪悪な人間は、他者にたいする批判を優先して、それを理由に自らの批判を回避しようとする。
5. 「邪悪性」の相手への投影
このように邪悪な人間は、自分の非を自省するより先に、まず相手を攻撃することで自分自身の完全性を維持しようとする。事実を尊重して認めるのではなく、躊躇なく事実を歪めて自分の非を拒絶し、相手を攻撃することだけに集中するのである。
邪悪な人間によるそうした場合にたいする相手への攻撃方法は、面白いほどに、自分自身の不完全性を相手にそのまま投影するやり方になる。これが、上記の引用文中の「自分の悪を世の中に投影する」とか、「投影や罪の転嫁によって自分の苦痛を他人に負わせる」との指摘となっている。
だから、DVや児童虐待をやっている張本人は、自分の邪悪性を相手に投影して、相手こそがDVや虐待をしているのだと虚偽の主張をする。
まったく同じように、捏造をやっていた張本人が、自分の邪悪性を相手に投影して、相手こそが捏造をしていたのだと虚偽の主張を行うのである。
この指摘は、私にとって実に合点のいくものであった。
6. 「集団ナルシシズム」の陥穽
この本の分析が面白かったのは、こうした邪悪性が個人だけのレベルではなく、集団のレベルでも発現することを指摘している点である。
前述したように邪悪性には、未成熟なナルシシズムの問題と関係がある。著者は次のように指摘する。
「先に私はナルシシズムと邪悪性の関係について述べ、ナルシシズムというのは、通常は、人間がそこから抜け出して成熟する前の段階であると書いた。ということは、邪悪性というのは一種の未成熟の状態であると考えることができる。未成熟な人間は成熟した人間より悪に走りやすい。」
そして集団が精神的に未熟であるときは、これとまったく同じ問題が「集団ナルシシズム」として生じることになるという。
「この集団ナルシシズムは、その最も単純かつ最も心地よいかたちとしては、集団のプライドというかたちで表出される。グループの構成員が自分の所属するグループに誇りをいだくと同様に、グループ自体が自分自身にたいして誇りをいだくようになる。」
こうした集団ナルシシズムは、外部に敵をつくることによって内部の結束を図るというナショナリズムの手法に直結することになる。
「集団凝集性を強化する最善の方法が、外部の敵にたいする憎しみを助長することだ」
「こうしたナルシシズムの利用は――無意識のものであろうと意図的なものであろうと――潜在的に邪悪なものである。邪悪な個人は、自分の欠陥に光を当てるすべての物あるいはすべての人間を非難し、抹殺しようとすることによって内省や罪の意識を逃れようとする。同様に集団の場合にも、当然、これと同じ悪性のナルシシズムに支配された行動が生じる。」
集団ナルシシズムが未成熟な集団に生じた場合には、このように容易にナショナリズムに直結し、邪悪で悪性なナルシシズムに転化しやすくなる。
7. 「邪悪な集団」の特性
精神的に未成熟で不健全な集団は、個人の場合と同様に、集団としての不完全性を受け入れることができない。そこに個人と同じ集団の邪悪性が生じうる。事実を虚心坦懐に受け入れ、良心に従って自己批判を行い、自分自身の考え方を検証して、自らの行いを律するということができないのが、「邪悪な集団」の特性だと考えることができる。
「通常、われわれは、証拠を突きつけられたときには、ナルシシズムが傷つくことにも耐え、自分の考えを改める必要性を認め、自分のものの見方を修正する。しかし、ある種の個人に見られるものと同様に、国家全体のナルシシズムもまた、ときとして通常の限界を超えてしまうことがある。そうしたことが起こると国家は、証拠に照らして自己の考えなり行動なりを修正するかわりに、その証拠を隠滅しようとしてかかる。」
これこそまさに、旧日本軍が行った数多の犯罪行為、すなわち従軍慰安婦問題しかり、731部隊による人体実験しかり、南京大虐殺しかり、今回の徴用工問題や朝鮮半島を植民地化して支配した事実などの、集団にとって不都合な事実を拒絶しようとする「邪悪な思考」をそのまま指摘したものだと言える。元慰安婦の苦痛の証言や、南京大虐殺での瀕死の証言のような事実を否定するこうした極右やネトウヨの言動には、ここでの指摘が完全にそのまま当てはまっている。
こうしたネトウヨそのものの思考こそ、「邪悪な思考」であり、「邪悪な集団」の表れであるということを、もっと自覚すべきではないのか。自身の属する集団の不完全性を指摘されたとき、反発するより先にまず自省して自己批判することこそ、精神的に成熟した集団としてなすべきことのはずである。
このような集団の邪悪性が特に悪化しやすいのが、集団が失敗を犯したときなのだという。
著者は次のようにも指摘している。
「こう考えると、物事に失敗した集団が最も邪悪な行動に走りやすい集団だということが明らかとなる。失敗はわれわれの誇りを傷つける。また、傷を負った動物はどう猛になる。健全な有機体組織においては、失敗は内省と自己批判をうながすものとなる。ところが、邪悪な人間は自己批判に耐えることができない。したがって、邪悪な人間がなんらかのかたちで攻撃的になるのは、自分が失敗したときである。これは集団にもあてはまることである。集団が失敗し、それが集団の自己批判をうながすようなことになると、集団のプライドや凝集性が損なわれる。そのため、国を問わず時代を問わず、集団の指導者は、その集団が失敗したときには、外国人つまり「敵」にたいする憎しみをあおることによって集団の凝集性を高めようとするのがつねである。」
日本は過去において、朝鮮を植民地化して支配したり、中国を侵略して非人道的な多数の虐殺行為を引き起こすなど、巨大な失態をいくつも犯してきた。この巨大な犯罪について、真摯に内省と自己批判を行うのは、精神的に成熟した健全な集団のあるべき姿である。完全とまでは言えないとしても、戦後ドイツはまさにこの方向性を目指した国家だと言えよう。
しかし日本という国家では、精神的に未成熟であるが故に、現在に至るも邪悪な対応しかすることができていない。というより、近年に至るほどこの傾向が悪化してきている。これは恥ずべきことだといわざるを得ない。
8. 植村隆・名誉毀損訴訟
現在私が担当している植村隆・元朝日新聞記者の名誉毀損訴訟は、慰安婦問題に関して1991年に植村記者が金学順(韓国で最初に元慰安婦として名乗り出た女性)について書いた記事に対し、被告西岡力がこれを「捏造」記事だと論難した事件(東京訴訟)である。ところがこの件で被告西岡の書いた資料を調べているうちに、西岡こそが韓国のハンギョレ新聞記事を何度も「捏造」していたとしか考えられない事実が明らかとなった(詳細は『慰安婦報道「捏造」の真実』(花伝社)を購入されたい)。同様に植村が捏造をしたと書いた櫻井良子を植村が訴えた札幌訴訟でも、被告櫻井が実際には金学順の訴状の記載を何度も間違えて引用していた事実が明らかになっている。
日本という国家が犯した失態について、率先して報道することにより問題提起しようとした植村隆と、その記事を捏造だとして攻撃しながら、実際には自らが不適切な記述を繰り返していた西岡や櫻井。どちらが精神的に健全な存在でどちらが「邪悪」な存在かは、明らかではないだろうか。
ところが何とも皮肉なことに、西岡力が植村隆を攻撃する名誉毀損書籍を出しているのが、この『平気でうそをつく人たち――虚偽と邪悪の心理学』を発行しているのと同じ草思社なのである。それなりにまともな書籍を発行していた出版社が、ネトウヨ出版社に堕落していくよい実例というべきだが、いずれにしてもこんな出版社の書籍を購入するべきではない。入手したい向きは、ぜひ中古本を購入されたい。
9. 「邪悪な集団の指導者」
そして、もう一度思い返していただきたい。
先の引用部分に書かれてあったように、邪悪な集団の指導者は、集団が犯した失敗に対して「外国人つまり『敵』にたいする憎しみをあおることによって集団の凝集性を高めようとする」。これこそが、韓国に対して現在日本が行っていること、安倍政権がやっていることではないのか。
このような「邪悪な集団」のありようを、われわれは正さなければならないはずである。私たちは、まず安倍政権を否定するのでなければ、精神的に健全な国家としての第一歩を踏み出すことができないことを認識すべきである。 |