頭から腐った裁判所
〜最高裁第2代長官田中耕太郎の「売国行為」〜 |
穂積剛 |
2021年6月 |
1. 「やってられねえや!」
野球にしてもサッカーにしても他の競技だとしても、審判があからさまに偏向していて、正当な判断ができない状況になっていれば、競技を続けるためのモチベーションを維持していくのは至難の業となるだろう。こんなに偏向した審判のもとで、真面目に競技なんて「やってられるか!」ということだ。
近時の裁判所のあまりの偏向と偏見と事実認定のデタラメさと非論理性を見せつけられるに付け、事実と論理を根本価値とするこの仕事に対する意気込みを弁護士としても失わされてしまう。同じように「これではやってられねえや!」ということだ。
2.「植村隆名誉毀損訴訟」敗訴の異常性
このように思わざるを得なくされた最大の原因は、この間に私が一貫して取り組んできた「植村隆名誉毀損訴訟」での裁判所の判断だ。この問題についてはこのコラムでも何度か取り上げてきたが、東京地裁、東京高裁と「狂った」としか評価しようのない異常な判決が続けて出されたうえに、この3月11日に最高裁が、植村の上告を棄却し、上告不受理決定を行った。
この問題については改めて別の機会に論じる予定だが、あまりに狂った判断が平然となされた状況に、戦慄と悪寒すら覚える。これは事実と論理が成立し得ない世界だ。言葉とは論理の体系のことだから、誰とも意思疎通ができない状況におかれたのと変わりがない。
たかだか10年くらいのあいだに、社会全体が狂っていく経過をここまでまざまざと見せつけられるとは思わなかった。これは、2012年12月に第二次安倍政権が成立し、世の中が急速に右旋回していくに伴って生じた状況なのだろう。
3. 砂川事件と「伊達判決」
もっとも、裁判所というところは実際には、もっとずっと以前の時期から腐りきった組織だった。
日本国憲法が施行されたのは1947年5月3日、そのたった12年後の1959年12月に出された砂川事件の上告審判決に関わる経緯がそれである。このときの最高裁判所長官(第2代)であった田中耕太郎が、最高裁大法廷での合議の内容をアメリカ大使館関係者に秘密漏洩するとともに、判決がアメリカ側の意に沿った内容となるよう工作をしていたのである。
砂川事件は1957年に、在日米軍の立川飛行場の拡張工事に関する闘争事件で起きた刑事事件である。7月8日にデモ隊の一部が基地内に数メートル入ったとして、2ヶ月後に20数人が逮捕され、そのうち7名が起訴されたという事案だった。適用された法令は、「日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約第三条に基づく行政協定に伴う刑事特別法」(刑事特別法)第2条違反である。
この事件が大問題となったのは、1959年3月30日に言い渡された東京地方裁判所判決(伊達秋雄裁判長)が、この刑事特別法について憲法9条2項前段、憲法31条に違反するものであって、在日米軍の存在が憲法上許容されないものと判示したからであった。いわゆる「伊達判決」である。憲法9条は1項で戦争放棄を謳い、2項前段で戦力不保持を規定しているところ、在日米軍はこれに違反していることから被告人らは無罪だと判示したものだった(厳密には憲法31条の適正手続規定違反による無罪)。
これに対して検察側は、跳躍上告(刑訴規則254条)といって、高裁での審理を飛ばして直接最高裁に不服申立てをした。この事件で同年12月に最高裁大法廷が判示したのが、有名な「統治行為論」による破棄差戻し判決である。
4.最高裁「統治行為論」判決
このとき最高裁は、日米安保条約の締結は「主権国としてのわが国の存立の基礎に極めて重大な関係をもつ高度の政治性を有する」ものであって、このような「高度の政治的ないし自由裁量的判断」は、「純司法的機能をその使命とする司法裁判所の審査には、原則としてなじまない性質のもの」だから、「一見極めて明白に違憲無効であると認められない限りは、裁判所の司法審査権の範囲外」だと判示して、伊達判決を破棄差戻しした。
三権分立に基づく司法権の機能を自ら貶めるようなまさに「自虐的」ともいうべき判示をしたこの「統治行為論」の是非はともかく、ここでもっとも問題があるのは、この事件の進行と判断について田中耕太郎がアメリカ大使館側に合議の秘密を漏らしていたことである。この刑事事件は検察官が被告人らを起訴したものであるが、実際の当事者はアメリカ合衆国及び外務省と、飛行場拡張計画に反対する市民らとの争いである。その紛争の一方当事者に対して、最高裁長官自身が一方的に肩入れしていたことになる。
5. アメリカ大使に対する情報漏洩
アメリカでは情報自由法という法律に基づき、30年を経過した政府文書は原則として公開されるという秘密指定解除の定めがある。これに基づいてアメリカ政府が公開した政府文書の中に、このときアメリカ大使館が外務省や田中耕太郎と接触していたときの記録が残されていた。
当時の米国駐日大使ダグラス・マッカーサー2世(マッカーサー元帥の甥)が1959年4月24日にアメリカ本国の国務長官宛てに送信した「秘密公電」には、次のような記録があった(以下引用はすべて《検証・法治国家崩壊》吉田敏浩、新原昭治、末浪靖司著、創元社による)。
《外務省当局者がわれわれに知らせてきたところによると、上訴についての大法廷での審理は、おそらく7月半ばに開始されるだろう。(中略)内密での話しあいで田中最高裁長官は大使に、本件には優先権があたえられているが、日本の手続きでは審理が始まったあと判決に到達するまでに、少なくとも数カ月かかると語った》
これによれば田中耕太郎は4月には「外務省当局者」に対して、最高裁での審理の状況について漏洩していたことになる。それだけでも大問題だが、さらに田中耕太郎自身が「内密の話しあい」でマッカーサー大使その人に、審理の進展状況について洩らしていた。対立する当事者の一方に、訴訟外に接触して露骨に肩入れするなど、裁判官として決してあり得ないことだ。これだけですでに田中耕太郎は、裁判官として完全に失格であって罷免ものである。
6. アメリカ大使館関係者に対する二度目の情報漏洩
最高裁での弁論は9月に予定されていたが、その前の1959年8月3日にアメリカ大使館から本国宛に送信した「秘密書簡」には、次のような記録が残されていた。ここで「在日アメリカ大使館首席公使」とは、マッカーサー大使のスタッフの一人だったレンハートのことを指している。
《共通の友人宅での会話のなかで、田中耕太郎裁判長は、在日アメリカ大使館首席公使に対し砂川事件の判決は、おそらく12月であろうと今考えていると語った。(中略)裁判長は、争点を事実問題ではなく法的問題に閉じ込める決心を固めていると語った》
《こうした考えのうえに立ち、彼は、口頭弁論は9月初旬に始まる週の一週につき2回、いずれも午前と午後に開廷すれば、およそ三週間で終えることができると確信している。問題は、そのあとで生じるかも知れない。というのも、彼の14人の同僚裁判官たちの多くが、それぞれの見解を長々と弁じたがるからである。裁判長は、結審後の審理は実質的な全員一致を生みだし、世論を“揺さぶる”もとになる少数意見を回避するようなやり方で運ばれることを願っていると付言した》
これは、田中耕太郎が直接レンハートに述べたことが報告されたものである。ここで田中は、争点についての見解、審理計画についての予測、そして判決が裁判官の全員一致で出されるようにしたいといった見通しまで、露骨に伝えている。裁判官弾劾法は裁判官の罷免事由として、「職務上の義務に著しく違反し、又は職務を甚だしく怠ったとき」、「裁判官としての威信を著しく失うべき非行があったとき」と定めているが、このいずれにも該当することが明らかだというべきである。
7. アメリカ大使に対する三度目の情報漏洩と評議の秘密義務違反
この事件では9月に6回の弁論が開かれて結審した。結審後の11月においても田中耕太郎は、非公式にマッカーサー大使と会談して最高裁での評議の内容を漏洩していた。11月5日付のアメリカ大使館から国務長官宛ての「極秘書簡」では、次のように記録されてあった。
《田中最高裁長官との最近の非公式の会談のなかで、砂川事件について短時間話しあった。長官は、時期はまだ決まっていないが、最高裁が来年のはじめまでには判決を出せるようにしたいと言った。彼は、15人の裁判官全員についてもっとも重要な問題は、この事件に取り組む際の共通の土俵をつくることだと見ていた。できれば、裁判官全員が一致して適切で現実的な基盤に立って事件に取り組むことが重要だと、田中長官はのべた。裁判官の幾人かは《手続き上》の観点から事件に接近しているが、他の裁判官は《法律上》の観点から見ており、また他の裁判官は《憲法上》の観点から問題を考えている、ということを長官は示唆した》
《田中最高裁長官は、下級審の判決が支持されると思っているという様子は見せなかった。反対に、彼は、それはくつがえされるだろうが、重要なのは15人のうちのできるだけ多くの裁判官が憲法問題に関わって裁定することだと考えているという印象だった。こうした憲法問題に伊達判事が判決を下すのはまったく誤っていたのだ、と彼はのべた》
田中耕太郎のこの発言は、裁判所の合議体で行われている評議の内容を、訴訟進行中にも関わらず露骨に一方当事者に漏洩するという、疑問の余地のない違法行為である。
裁判所法75条1項は「合議体でする裁判の評議は、これを公行しない」、2項は「評議の経過並びに各裁判官の意見及びその多少の数については、この法律に特別の定がない限り、秘密を守らなければならない」と規定している。田中の行為は完全にこれに違反している。というか、ここまであからさまにこの裁判所法の規定に反する違法行為に訴訟と同時進行で手を染めていた裁判官は、前にも後にもこの田中耕太郎だけだったのではなかろうか。これは完全なる罷免対象行為である。
8.正真正銘の「売国奴」
こうして田中耕太郎の漏洩情報どおり、1959年12月16日に最高裁は、上記の「統治行為論」を理由として、伊達判決を破棄して事件を東京地裁に差し戻した。その後に田中耕太郎は、長官在任中の功績が認められて国際司法裁判所判事に就任した。
司法権の最高機関である最高裁判所のしかも長官が、憲法施行後わずか12年後の1959年に、このような明白な違法行為に手を染め、紛争の一方当事者であるアメリカ関係者に肩入れして評議の秘密を漏洩させていたのである。これは、日本の憲法及び法律の要請を踏みにじり、外国に対して一方的な利益を図った「国を売った」行為であるというほかない。
要するに第2代最高裁長官田中耕太郎は、アメリカに対して日本を売り渡したのだ。これこそ文字通りの「売国行為」であり、田中耕太郎は正真正銘の「売国奴」に他ならない。わが国を愛することを自称する右翼の連中が、これほどまでに明確な「売国奴」に対して、どうしてもっと怒らないのか私にはまったく理解できない。
9. 「やる気」の奮起
わが国の裁判所というところは、そのトップからしてこのとおり腐った「売国奴」であった。その命脈を受け継ぐ現在の裁判所が、偏向と偏見とデタラメと非論理性にまみれていたとしても、何ら不思議ではない。
こんなふうに審判が腐っているのでは、競技に真剣に取り組む意欲を著しく失わされる。心底から「やってられねえや!」と感じざるを得ない。植村隆名誉毀損訴訟の上告を最高裁が退けたあとしばらくは、仕事に取り組む意気込みを維持することが非常に困難だった。
けれども、諦めてしまうわけにはいかない。ここで諦めたら事態が後退していくだけであり、本来救済されるべき権利がますます侵害され続けることになってしまう。尊敬すべき正木ひろし弁護士をはじめとする先人たちは、三権分立の規定のない戦前の明治憲法のもとでも、屈することなく最後まで闘い続けていた。その圧倒的苦労に比べれば、まだまだ全然状況はマシだ。潰えそうになる気力を振り絞りながらも、先人たちを思ってやる気を奮い立たせている。 |