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コラム・弁護士

 
   

父母の婚姻関係に左右されない親子法の確立

後藤 富士子

2023年2月

弁護士 ・ 後藤 富士子

「家族法制の見直しに関する中間試案」についてパブリックコメント応募意見書の内容

まえがき―意見書の提出にあたって

「家族法制の見直し」について、改正の柱として考えるべきことは、第一に、父母の婚姻関係に左右されない親子法の確立であり、第二に、「国親」思想(パターナリズム)を清算して個人をエンパワーする司法に改革することである。

たとえば、民法766条について、「親権の効力としての面会交流」と「子の親に対する扶養請求権」に分割したうえ、いずれも親子法に規定するという風にならざるを得ないと思われる。また、民法768条財産分与に関しても、いわゆる清算的財産分与であるなら、子の経済的自立に必要な高等教育費用相当額ないし割合を、配偶者である権利者に分与しないで義務者である親に留保させることも必要である。さらに、婚姻費用や養育費について、二世帯になって相対的に貧困化することに照らし、経済的弱者の自立を視野にいれながら、児童手当などの公的給付や税控除などの経済的メリットを含めて父母間の負担の公平化を図るべきであろう。

すなわち、夫婦間の問題についても、父母の子に対する養育責任の見地から見直し、子の福祉を最大化する法制度に改めるべきである。そうすると、現行法の編成自体を大きく改変することになるので、「家族法制の見直しに関する中間試案」について「どの項目に対する意見か」を特定することは困難である。そこで、まず本意見書の射程を絞り、第4(親以外の第三者による子の監護及び交流に関する規律の新設)、第6(養子制度に関する規律の見直し)および第8(その他所要の措置)は射程外とする。

そのうえで、「中間試案」についての「対案型意見」ではなく、あるべき法改正についての「提言型意見」として述べるものとする。

第1 法改正の2つの柱

  1. 父母の婚姻関係に左右されない親子法の確立
  2. 「国親」思想(パターナリズム)を清算し、個人をエンパワーする司法

第2 具体的法改正案(骨子)

  1. 民法第818条3項の「父母が婚姻中は」を削除し、民法第819条を削除する。
  2. 民法第766条を削除する。
  3. 民法第820条の2として、監護ないし面会交流の規定を新設する。
    その際、親権喪失事由(第834条)や親権停止事由(第834条の2)との整合性が失われないようにする。
  4. 「養育費」は、民法第4編第7章の扶養に一本化する。
  5. 民法第768条3項の財産分与の額および方法について、子の経済的自立に必要な高等教育費用相当額ないし割合を、配偶者である権利者に分与しないで義務者である親に留保させることを考慮事項として明示する。
  6. 婚姻費用や養育費について、子の将来の人生を保障することを優先して、経済的弱者である妻ないし母の生活費として費消されないようにする。そのためには、司法において、私的扶養優先原則を改める必要がある。そして、公助を父母の養育責任の中に取り込んだうえで、負担の公平化を図る。

第3 提案理由

  1. 家父長的「家」制度の廃止とその限界
    日本国憲法第24条に基づき、戦前の家父長的「家」制度は廃止された。しかるに、それが民法改正に反映されたのは極めて限定的であった。法律婚の制度内においてすら男女不平等があるのだから、法律婚の枠内にとどまる形式的男女平等の域を出ることはなかったのである。
    法律婚の制度内における男女不平等の例としては、婚姻適齢の男女差、女性だけに課される再婚禁止期間、男性だけに認められる嫡出否認権などがあり、前二者について近年漸く法改正がされた。一方、法律婚の枠内にとどまる形式的男女平等の典型例を2つ挙げるとすれば、民法第750条の「夫婦同氏」原則と民法第818条3項の「父母の共同親権」である。
    ところで、日本国憲法第24条2項は、立法の指針として、「個人の尊厳」と「両性の本質的平等」という2つの理念を掲げている。これに照らせば、現行民法は、この憲法的価値観を体現しているとは言い難い。とりわけ「個人の尊厳」についてみれば、全く顧慮されていないと言うほかない。「夫婦同氏」の強制、事実婚差別(婚外子)、離婚・未婚の絶対的単独親権制、離婚を親権喪失事由とする司法の運用等々は、男女差別では説明がつかない。いずれも「個人の尊厳」が等閑視され、「国親」思想による独善的・欺瞞的パターナリズムに司法が毒されている結果としてのみ説明が可能になる。「国親」思想は、構造的に作られる「弱者」(=女、子ども)を国家が保護するのであるが、裁判所が具体的に福祉政策をもっているわけではないこともあって、専ら「強者」である男に負荷することで「解決」とされるのである。また、国家(立法・行政)も、「弱者」が権利主体として自立することを妨げながら、政策による救済の対象を序列化するだけである。
    このような、現行法にみられる戦前の「家族法制」の残滓を、どのような理念に基づいて克服していくのかが問われているのであり、「家族法制の見直し」は、実に必然的でタイムリーなものとして立ち現れている。
  2. 「共同親権」の由来と「共同養育」の普遍性
    家父長的「家」制度の下にあった民法の旧規定では単独親権制を採用しており、しかも親権者について第一次的に「家ニ在ル父」、第二次的に「家ニ在ル母」とされていた(旧第877条)。
    しかるに、日本国憲法第24条1項は「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。」と定めた。ここで注意すべきは、「夫婦の同等の権利」という概念が、立法上の原則を定めた同条2項の「両性の本質的平等」とは異なる点である。すなわち、夫婦間の「平等」よりむしろ、その前提にあるはずの、夫婦が相互にもつ同等の「権利」を憲法第24条1項は定めていることに注目する必要がある(辻村みよ子『憲法と家族』123頁)。そうすると、現行民法第818条3項が親権者について父母の共同親権の原則を規定しているのは、憲法第24条1項の「夫婦の同等の権利」に基づくものと解される。換言すれば、「共同親権」は、憲法第24条1項に由来するものであるが、その反面として、法律婚の中でしか通用しないものであった。未婚や離婚の場合、絶対的に単独親権が強制されたのは、そのためである。
    ところで、現行法の絶対的単独親権制は、子どもの視点が完全に欠落している。父母の都合で離婚したり未婚であるなどの事情により、父母双方が実在しているのにもかかわらず、父母の共同親権の恩恵を享受できない。子どもにとって、「片親家庭」が強いられる。これは、子どもからすれば憲法第14条で禁止される不合理な差別にほかならない。そのことは、結局、子どもの法的主体性(換言すれば「個人の尊厳」)を無視すればこそ平然となしうる法制であろう。
    ちなみに、「女性差別撤廃条約」第5条(b)は「あらゆる場合において、子の利益は最初に考慮する」と規定し、第16条1項(d)でも、父母が婚姻しているか否かにかかわらず、父母が負う法的責任は同一・平等とされ、父母の法的責任の決定にあたっては子どもの利益が至上のものとして考慮されなければならないとされている。また、「子どもの権利条約」第18条1項でも、子どもの発達・養育に対しては、親双方が共同の責任を有するとされ、「子どもの最善の利益」の原則が提起されている。すなわち、子どもを主体として父母による「共同養育」が国際人権法のスタンダードになっているのであり、現在では普遍的な原理となっている。
    1989年11月20日に国連総会第44会期において全会一致で採択された「子どもの権利条約」は、日本では1994年に批准されている。にもかかわらず、30年近く経過しようとしている現在においても、絶対的単独親権制を廃止しようとしない。日本のこのような異常な停滞は、法律家の「在り様」に潜む深刻な欠陥に起因する疑いが大きい。たとえば、裁判所は、「DV事案」といえば、一律に母の単独親権にしたり、父子の面会交流を禁止したりして、全く臆するところがない。それは、もはや個別事件の解決という司法の機能を喪失して、行政取締法規の適用に堕している如きである。
  3. 「子の福祉」を実現するのは誰か?
    離婚訴訟における単独親権者指定のための家裁調査官の調査報告書や面会交流事件では、「子の福祉」という文言が必ず出てくる。
    まず、親権者指定のための家裁調査官の調査では、調査事項からして「子の監護の現状は子の福祉に適うものか」「子の監護状況、子の意向」などというものであり、子の身柄を確保した親が単独親権者に直結することが目に見えている。そもそも単独親権が「子の福祉」に反するとは考えてもいないのである。
    実際にあった調査では、子(小6男児)は「父母のどちらも必要だ」という意見を表明しているにもかかわらず、「父母が離婚した場合、親権者になった方が子どもと一緒に暮らして育てることになるけど、親権者についてどう思うかな?」と質問している。子は、目に涙をためながらしばらく沈黙した後、「決められない」と応えている。それにもかかわらず、色々質問し、最後には「もし裁判官が、これからもお母さんと暮らしてくださいって決めたら、どうする?」と詰め寄り、「・・・そうします」という回答を引き出している。そのうえで、「そうなるとしたら、何か心配なことはありますか?」とフォローしたつもりで質問し、子は目に涙をあふれさせて「お父さんが悲しむんじゃないか」と心配している。この「調査官の意見」では、「父を気遣う気持ちを示しながらも、現状の母との生活が続くことを受け入れる意向を示しており、子は、あえて現在の生活を変えたいとまでの思いは有していないものと推察される」というのであり、当然ながら判決では母が単独親権者に指定された。ここまで露骨に子の意向を無視して単独親権者指定を仕事とする調査官は、もはや児童虐待の謗りを免れない。
    また、離婚前の共同親権者である別居親と子との面会交流については、親にも子にも法的権利はないものとされ、父母で合意ができなければ、裁判所が「子の福祉」を勘案して、面会交流の可否、頻度、方法を決めるものとされている。まして、離婚により親権者でなくなった別居親であれば、同居親の許容する範囲で面会交流が可能になるが、法的裏付けがないから、親子関係は実体のない、戸籍上のものにすぎなくなる。
    ところで、「子の福祉」とか「子の最善の利益」という文言自体は、前記した「女性差別撤廃条約」や「子どもの権利条約」でも指導原理として意義をもっている。しかし、それは父母による「共同養育」が前提となってこそであり、絶対的単独親権制の下では単なる「枕詞」にすぎず、むしろ絶対的単独親権制を温存させる「隠れ蓑」である。法律家や家裁調査官のような所謂「専門家」が、市民感覚と隔絶した絶対的単独親権制について疑問をもたないことは致命的欠陥である。
    翻って、「子の福祉」とか「子の最善の利益」が「共同養育」について指導原理でありうるのは、それを実現するのが父母にほかならないからである。裁判所は、父母に「子の福祉」「子の最善の利益」を追求させる援助ができるだけであり、裁判所が「子の福祉」や「子の最善の利益」を実現することはできない。換言すれば、現在の裁判所は、単独親権制の絶対化により「子の福祉」「子の最善の利益」を阻害しているのである。
  4. 養育費「算定表」の思想 ― 特異な法万能主義
    「養育費」すなわち未成熟子扶養の問題は、婚姻中は婚姻費用の問題であり(第760条)、離婚後は監護費用の問題とされている(第766条)。民法第877条1項が親子間の問題であるのに対し、同第766条の監護費用は監護親と非監護親の間の問題である。ちなみに、民法第877条1項に基づき、未成熟子が自ら権利者(申立人)として(15歳未満であるときは法定代理人によって)、「扶養に関する処分」事件の申立てにより扶養請求をすることができる。また、同第766条による「子の監護に関する処分」事件の申立てにより、監護者が権利者(申立人)となって非監護親に対し監護費用(養育費)を請求することもできる。
    ところで、実務では、「未成熟子」とは、未成年子に限らず、成年子であっても「社会通念上経済的に自立するに至らない」という理由で包含される扱いになっている。その結果、別居親が成年に達した子に対して支払うのではなく、もはや親権・監護権がなくなった同居親に対して支払の継続を強いられる。しかしながら、このことは、戦前の家父長的「家」制度の下にあった「親権」概念に通じるものがある。現行民法で親権に服するのは「成年に達しない子」に限られているのに対し(第818条1項)、旧規定(旧第877条)では、成年に達しても独立の生計を立てていない間はなお親権に服するとされていた。
    この養育費支払終期の問題は、成人年齢が18歳に引き下げられたことで一層矛盾を拡大している。絶対的単独親権制の下で単独親権者となった親が「監護費用」として非親権者の親に請求する構図は、結局のところ、子の法的主体性を否定して、子の存在を「親の付属物」のように扱うのであり、憲法的価値観を逸脱している。 また、実務では、「算定表」が用いられている。それは、専ら権利者と義務者の収入だけが算定の基礎とされている。親から相続した資産があっても、あるいは児童手当などの公的給付があっても、度外視されて算定に影響を及ぼさない。しかし、親の子に対する「扶養義務」として考えれば、父母は同等の義務を負っているのであり、収入だけに限定すること自体が間違っている。
    しかも、信じられないのは、この算定表では、権利者も義務者も健康で文化的な最低限度の生活を営めないことが明らかな場合ですら「養育費」を算定していることである。義務者の給与年収が50万円で自分の生存を維持するに足る収入がないのに、権利者の給与収入が1000万円であっても、養育費は「0〜1万円」とされる。義務者も権利者も年収が100万円程度の場合、養育費は「1〜2万円」とされる。義務者にとって少額とはいえ支払困難な養育費を支払っても、子どもが同居している権利者の生活は貧困のままである。このような「算定」は、私的扶養を絶対化するからであり、「子どもの貧困」どころか、親も子も絶対的貧困に陥る。この事態は中学生でも分かるはずなのに、裁判所は平然と「算定表」で運用する。これは、市民社会から隔絶した法万能主義がもたらす「陳腐さ」なのではなかろうか。
  5. 「少子化」に拍車をかける司法
    厚労省の人口動態統計によると、2021年の出生数は81万1604人と過去最少を記録した。「合計特殊出生率」は1.30。第一生命経済研究所は22年の出生数を77.1万人程度と推計し、少子化が加速している。フランスやドイツ、スウェーデンも日本と同様に出生率が低下傾向にあるものの、低下し続ける日本と異なり出生率は徐々に上向きつつある。特筆すべきことは、内閣府が実施した20年度の「少子化社会に関する国際意識調査」で、日本は子どもを産み育てやすい国だと思うか尋ねたところ、「全くそう思わない」「どちらかといえばそう思わない」を合わせて6割が産み育てにくいと回答したのに対し、フランスやドイツ、スウェーデンでは8〜9割が自国を産み育てやすい国と回答している。それは、経済支援施策に加え、出産・子育てと就労に関する幅広い選択ができる環境の整備、育児休業制度や保育の充実を図るなどした結果であるといわれている。
    ところで、岸田文雄首相が打ち出した「異次元の少子化対策」が話題になる中、京都大学の柴田悠准教授(社会学)が出生率アップに必要な政策と予算を試算し、公表した。そこでは、@児童手当を所得制限なしで支給し、額を上乗せ、A保育士の待遇や配置基準の改善と、保育の定員拡大、B高等教育の学費軽減の3つを具体策として検討している。@児童手当については、現行の額に加え、月3万円(所得上位50%の世帯は、所得に応じ月1〜3万円)を上乗せ支給し、低所得者層に手厚くする。これに必要な追加予算は年4.3兆円。A保育士の待遇、配置基準の改善では、保育士の賃金を全産業平均の489万円に引き上げ、国の「配置基準」を先進国並みに設定。さらに、親の就労要件をなくして全ての1〜2歳児が保育を利用できる定員を整備する。必要な追加予算は年計2.1兆円。B高等教育の学費軽減は、大学、短大、専門学校の全学生の学費61万円(国立大学の年間学費に相当)を免除。年2.4兆円の追加予算が必要となる。そして、これらの政策により出生率は0.53上昇し、政府が目標に掲げる希望出生率1.80を実現できるとされている。
    このように具体的データに基づく現状と施策をみると、家庭裁判所は、それこそ「異次元の世界」のようである。単独親権者指定のために無駄な時間、労力、費用を費やすなど論外である。父母の「離婚の自由」を保障しながらも、共同養育責任を法律で明記し、子どもが健全に成長するための公的施策を父母の共同養育責任の中に組み込んで解決することこそが求められている。とはいえ、公的施策が貧弱な現状においても、司法が実現できる方策は少なくない。たとえば、財産分与について子の経済的自立に必要な高等教育費用を義務者に留保させることは、運用で可能である。また、児童手当や税控除などの公助を父母の共同養育責任の中に組み込んだうえで負担の公平化を図ることも運用でなしうる。
    なお、「出生率」などという「個人の自由」とは関係のない数値に意味を見出すことはできないが、子どもを産み育てやすい社会は、誰もが望むものであろう。
  6. 当事者をエンパワーする司法の構築
    現行民法において、単独親権者指定や面会交流事件、養育費事件は、未成年子が最大の利害関係人でありながら、当事者として位置づけられず、父母間の離婚紛争に絡めとられてしまう。
    たとえば、離婚については夫婦双方が同意できても、子の親権をめぐって非妥協的な紛争になりがちである。それは、親権喪失事由がないのに親権を喪失させられることを想起すれば、当然のことであろう。すなわち、離婚を親権喪失事由にする単独親権制が、家族関係を修復不可能にするほど熾烈な法的紛争を惹起しているのである。そして、親権争いのために協議離婚も調停離婚もできないときに離婚訴訟になるが、民法第819条2項は、裁判所が父母の一方を親権者と定める、としている。しかし、単独親権者指定の基準について民法は明示的規定をもうけていない。「裁判所」というのも「裁判官」という実在する個人にすぎないうえ、当該子の養育に何のかかわりもない。それなのに、親権喪失事由がない親から親権を喪失させ、子を片親にしてしまうことができるのは何故なのか?神に成り代わる思い上がりとしか思えない。そして、この結論を熟知するからこそ、子の連れ去り別居が横行し、親子の引き離しが進行していく。
    面会交流や養育費は、民法766条に基づいている。すなわち、離婚法に定められているのであって、最初から未成年子は当事者性を否定されている。ここでも、父母の協議で定めるものとされているが、それで解決できないときは「家庭裁判所が決める」とされている。これは、一方の親は「ごねていれば裁判官が決めてくれる」とタカをくくるし、他方の親は「自分と子の運命が裁判官に決められてしまう理不尽」に打ちひしがれる。ここでも、実在する個人にすぎない裁判官が全能なのである。
    このように、現行家族法制では、親が子を育てることも、子が両親に育てられることも、何ら法的裏付けのない無権利状態に放置され、全ては裁判官の職権に委ねられている。しかし、それでいいはずはない。日本国憲法第24条2項や同第13条では、「個人の尊厳」「個人の尊重」が謳われている。また、国際人権法でも、親にも子にも権利として保障されている。
    そうすると、最終的には民法改正なしにすまない問題であるにしても、法改正されさえすればすべてが解決するというものでもない。現行法の下で検討すれば、父母の協議による解決を至上のものとして司法が当事者を励まし、エンパワーすることである。これは、まさに「調停前置主義」の長所を最大限に追求することと軌を一にする。実際にも、結論がどうであれ、父母が当事者として解決のために裁判所で話し合い、合意により解決したという経験は、その後の人生の自信になるし、何よりも父母から子に対する最良のプレゼントになるはずである。
    しかるに、そのような行き方を妨げているのは、司法における「国親」思想にほかならないのであり、まずその清算が急務であろう。

 

 

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