刑務所のリタ・ヘイワース |
穂積剛 |
2022年12月 |
1. スティーブン・キングの中編小説
この作品は、ホラー小説の巨匠として知られるスティーブン・キングが1982年に発表した中編小説である。日本では1988年に新潮社から翻訳版が発売されている。原題は「Rita Hayworth and Shawshank Redemption」といい、この作品を映画化した「ショーシャンクの空に」の方が有名だろう。映画化されたのは1994年のことだった。主人公のアンディ・デュフレーンが無実の罪でショーシャンク刑務所に収監され、最終的に脱獄に成功するという物語である(なお、以下この作品のモロのネタバレがある)。
この作品が印象深いのは、私が勤務先を退職して司法試験の受験勉強に取り組んでいた1993〜94年ころに、この小説をなんども読み返しては、これに勇気をもらって毎日を送っていたからだった。
もっともこれに励まされた理由は、この作品が単にアンディが脱獄して自由の身になるという希望のある成功譚を描いたものだったからではない。そうではなく、最終的に成功することになろうと失敗で終わろうとも、挑戦すること自体に意味があるということを描いた作品だったからである。
2.「為せば成る為さねば成らぬ何事も」
もともと私が好きではない言葉として、「為せば成る為さねば成らぬ何事も」というものがある。なぜこれが好きではないかというと、後半の「為さねば成らぬ何事も」は確かに真実だと思うけれども、前半の「為せば成る」というのは、明らかに虚偽だと思うからだ。
人間はどんなに才能があり努力をしたとしても、100mを1秒で走ることはできない。走り幅跳びで100mを飛ぶことなどできないし、息継ぎをしないで3日間水中に潜り続けることもできない。
もっと言えば、この宇宙における最速の存在は光の速度であるが、この速度を超えて人間が移動することもできない。これは物理学的な絶対の真実なのである。
このように、どれほど「為せば成る」と主張したところで、実際にこの世には厳然たる不可能がある。そして、なにが不可能かをあらかじめ判別することなどそれこそできない。
3. 挑戦することの意味
そうだとすれば、不可能かも知れないのに、努力をして挑戦することにどのような意味があるのか、と考えざるを得ない。当時の自分にとってみれば、大学で理科系を専攻してコンピューター会社に勤務していた私が、未知の領域である司法試験に挑戦するという選択をすることにまさにこの問題意識があった。
人間には不可能があるのだから、必死になって勉強したところで最終的には受験に失敗することになるかも知れない。「死ぬ気でがんばれば絶対に合格できる」などという、小学生の子供みたいな楽観論を信じてしまうほど私は単純ではなかった。
こうして辿りついた結論は、結果的に目的を達成できるとしても失敗するとしても、そこに挑戦すること自体に意味を見出せるのなら、その挑戦に後悔はないという考えだった。
私には法律家になって、少数者の人権を擁護と強者の横暴の排除に取り組みたいという目的があった。そうした活動をすることで、あまりに希薄に過ぎる日本社会の人権意識を喚起していくことに貢献できればと思っていた。その最たるものとして、戦後の民主主義社会の誤りを正すための出発点である戦後補償の問題に取り組みたいと考えていた。
こうした目的に大きな意義があることを確信していたので、その目的のため努力することに躊躇は感じなかった。結果的には失敗したとしても、この大きな目標に向けて挑戦することに後悔はないと思えたので、退職して受験勉強に取り組むことを選択したのである。
4. この作品に励まされた理由
それでもやはり、長い時間をかけて孤独な受験勉強を続けることには、強い不安がある。そうしたときに何度も読み返していたのが、この「刑務所のリタ・ヘイワース」だった。
この作品の最後で、刑務所でのアンディの盟友であるレッドは、長期間に及ぶ刑務所生活と高齢のためすっかり外界に順応できなくなり、仮釈放で出所したあとも軽犯罪を犯して刑務所に戻りたいとの誘惑になんども駆られることになる。
レッドはその誘惑に抗いつつ、最終的にはアンディのいると思われるメキシコに向けて旅を始める。たった一人で、仮釈放違反という罪を犯し、外界での社会生活にもなじめないながらも、それでも自由に向けて出発することになる。レッドはそのときの心情について、「これは自由人だけが感じられる興奮だと思う。この興奮は、先の不確実な長旅に出発する自由人にしかわからない。」と表現している。
そしてこの物語では、実際にレッドがアンディと再会できるかどうかは描かれていない。そこを描いてしまっては、「先の不確実な長旅に出発する自由人」の本当の心情を表現することができないからだ。だからこそ、当時の私にとってこの部分はとても大切に思えた描写だった。
5.「ショーシャンクの空に」の問題点
ところが1994年になって公開された映画の「ショーシャンクの空に」では、最後の場面で二人がメキシコで出会うところを描いてしまう。これは致命的な欠陥だと私は思った。映画と小説とではこの部分以外にも、ちょっと感心しない変更部分がいくつもあるが、この最後のシーンだけは絶対に許せないと私は思っている。
そのため私は今でも、映画の方をとてもではないが名作とは評価できない。他方で小説の方は、いま読んでもなお感銘を受ける内容となっている。個人的には原作の方が圧倒的に名作だと言えると思うので、興味があるなら読んでみていただきたい。
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