ついに集団的狂気に陥った裁判所 |
穂積剛 |
2020年7月 |
1. 「裁判所が狂い始めている」
2018年5月のこのコラムで、私は「裁判所が狂い始めている」という記事を書いた。「従軍慰安婦」問題に関する吉見義明教授の名誉毀損訴訟での裁判所の判決内容が、あまりに常軌を逸した狂った内容だったことを指摘して、裁判所が狂気に陥りつつある状況を指摘し、著しい質の低下について問題提起したものだった。
この時点ではまだ、裁判所という組織が全体として狂気に陥ったのか、それとも大半の裁判官がまだ常識的な水準を維持できているのか、断定するところまでは至っていなかった。しかし現状ではついに、裁判所は「集団的狂気」に陥ったものと判断せざるを得なくなった。それは同時に、この国全体が「集団的狂気」に陥りつつあることを意味することとなる。
2. 朝鮮人「従軍慰安婦」金学順に関する1991年8月の記事
この事件は、植村隆名誉毀損訴訟である。
朝日新聞記者だった植村隆は、「思い出すと今も涙」「元朝鮮人従軍慰安婦」「戦後半世紀重い口開く」という記事を、1991年8月11日の朝日新聞大阪本社版社会面に掲載した。これは、朝鮮人「従軍慰安婦」として後に初めて実名で名乗り出ることになる金学順(故人)が、韓国国内で匿名で被害を名乗り出たことについて報道した記事であった。
この記事のリードの部分に、「日中戦争や第二次大戦の際、『女子挺身隊』の名で戦場に連行され、日本軍人相手に売春行為を強いられた『朝鮮人従軍慰安婦』のうち、一人がソウル市内に生存していることがわかり」との記述があった。
3. 植村隆に対する異常なバッシング
そしてこの報道の23年も後になって、朝日新聞の「従軍慰安婦」報道について異常なバッシングが繰り広げられる2014年に、「週刊文春」2月6日号で「“慰安婦捏造”朝日新聞記者がお嬢様女子大教授に」との記事が掲載された。そこに、東京基督教大学教授(当時)の西岡力の以下のコメントが掲載されていた。
「植村記者の記事には、『挺身隊の名で戦場に連行され』とありますが、挺身隊とは軍需工場などに勤労動員する組織で慰安婦とは全く関係がありません。しかも、このとき名乗り出た女性は親に身売りされて慰安婦になったと訴状に書き、韓国紙の取材にもそう答えている。植村氏はそうした事実に触れずに強制連行があったかのように記事を書いており、捏造記事と言っても過言ではありません」
この記事が発売されるや植村に対して大量の非難が湧き上がり、朝日新聞を退職して就職予定だった大学には抗議が殺到して仕事を失い、さらに当時高校生だった植村の娘の写真までネットに晒され、「こいつの父親のせいでどれだけ日本人が苦労したことか。(中略)自殺するまで追い込むしかない」と書き込みされた。植村のもとに送られてきた匿名の手紙には、「『国賊』植村隆の娘である○○(手紙では実名)を必ず殺す。期限は設けない。何年かかっても殺す。何処へ逃げても殺す。地の果てまで追い詰めて殺す。絶対にコロス。」と書かれてあった。
4. 植村隆の訴訟提起
しかし、植村がこの記事で捏造をした事実などない。植村は家族を守り名誉を回復するため、2015年1月に東京地裁で文藝春秋と西岡力を被告として、同年2月に札幌地裁で櫻井よしことワック、新潮社、ダイヤモンド社を被告として、それぞれ名誉毀損による損害賠償請求訴訟を提起した。
なお上記の西岡のコメントについていうと、「このとき名乗り出た女性」すなわち金学順が、「親に身売りされて慰安婦になった」などと述べたことは一度もないし、もちろん「訴状」にも「韓国紙」にもそのような記載はない。
このどちらの訴訟も、これまで積み上げられてきた通常の名誉毀損訴訟の枠組みから考えれば、植村が勝訴するに決まっている事件だった。特に難しい法律論上の問題があるわけではない。名誉毀損訴訟についてはこれまでいくつもの最高裁判決によって基本的構造が構築されてあり、その内容はすでに確定している。この枠組みに沿って判断すれば、どの裁判官が担当したとしても、基本的には結論は同じになるはずだった。
交通事故訴訟で、事故類型によって過失割合がほとんど決まってしまっているのと同じことだ。婚姻費用・養育費の問題で、裁判所当局によって標準算定表が作られ、これにより全国の裁判所で同一水準の婚姻費用・養育費の認定がされているのと同じである。
5. 東京と札幌で相次ぐ敗訴
ところがどういう訳か、これまでのすべての判決で植村は敗訴している。2018年11月9日札幌地裁判決、2019年6月26日東京地裁判決、2020年2月6日札幌高裁判決、そして2020年3月3日東京高裁判決のいずれについても、裁判所は植村隆の請求を棄却した。
その判断内容が、なるほどそういう論理であれば請求棄却もやむを得ない、というような「痛いところを突かれる」判決では全くなかった。実際にはまったく逆で、どれもデタラメきわまりない、読んでいてこちらが恥ずかしくなるレベルの低い判示となっていた。
その低次元ぶりを逐一説明するには字数が足りないので、ここでは最後の東京高裁判決の論旨が自己矛盾を来していることを端的に指摘しておこう。
6. 名誉毀損訴訟の「真実性」と「相当性」
名誉毀損訴訟においては、名誉を毀損して被害者の社会的評価が低下させられた場合であっても、その記載した内容が「真実」すなわち本当であったことを被告が証明できるか(真実性)、真実性の証明ができなかった場合でも、名誉毀損の当時には真実だったと思い込んだとしてもやむを得ないだけの相当の根拠があったと言える(相当性)なら、違法性あるいは故意過失がないとして、不法行為の成立が否定される。
簡単に言えば、植村の捏造が「本当」だったと文春と西岡が立証できたなら、文春と西岡は責任を問われない。仮に本当でなかったとしても、「週刊文春」の発売時点で文春と西岡の側に、捏造が本当だったと言えるだけの充分な根拠があったなら、やはり文春と西岡の責任は否定される。
実際には「真実性」を立証できない、すなわち記事が本当だったと証明できないのに、「相当性」があれば責任が否定されるのは、「表現の自由」に対する配慮があるからだ。「真実性」を証明できなくても、記事を書いた時点で充分な根拠があったと言えるのなら、その責任を問わない、とすることで自由な表現活動を守ろうとしたのである。
7. 「真実性」の否定と「相当性」による救済
この構造のもとで東京高裁判決は、週刊文春での上記の西岡のコメントについて、その「真実性」を否定した。
この西岡コメントについては、金学順が「親に身売りされて慰安婦(裁判所の認定は「キーセン」)になった」と植村は実際には知っていたのに、そのことを記事に書くと「権力による強制連行」という自分の前提にとって都合が悪いので、あえて記事に書かなかったと言えるかどうかとの点が、「捏造」の対象として問題にされていた。
この部分について裁判所は「真実」ではないとした。つまり、植村が「捏造」した事実はないと判示したのだ。
けれども裁判所は、西岡と文春について「相当性」を認めて免責した。つまり、文春記事が出された時点では、西岡と文春が「捏造」だと信じてしまったとしても、仕方がないと言えるだけの根拠があると判示したのである。
8. 判断のわかれることが正当化される場合
さて、裁判所は「捏造の事実はない」と判示したのに、西岡と文春が捏造だと信じたとしても仕方がないという。どうして判断がわかれたのか。
通常、「真実性」が否定されたのに「相当性」で救済されるのは、その前提となる根拠が違っている場合だ。
例えば典型例としては、一審判決において有罪と判決が出された被告人について、有罪を前提に記事を書いたところ、その後の控訴審で逆転無罪となり、それが確定したというケースがある。記事を書いた段階では一審の有罪判決しかなかったのだから、それを根拠に被告人を犯人だとする記事を書いたとしても、それは仕方のないことだろう。けれども名誉毀損訴訟の判決の時点では、無罪判決がでていたので「前提が違った」のである。
だからこの場合には、「真実性」は否定されたが「相当性」は肯定され、新聞社は免責されることになる。実際に最高裁の判例にこうした事案があった。
9. まったく同じ資料に基づく矛盾した判断
しかしこの東京高裁のケースは、まったく違う。この判決は、まったく同じ資料を根拠として、裁判所としては「真実性」を否定し、文春と西岡に対しては「相当性」を認めて救済しているのだ。
ここで具体的な根拠として挙げられている資料は、@1991年8月15日付ハンギョレ新聞記事、A1991年12月に金学順が日本政府を訴えた訴状、B「月刊宝石」1992年4月号の臼杵敬子記事、の3点である。これらの資料があったことから、捏造があったと西岡と文春が信じたとしてもやむを得なかったと裁判所は判示したのだが、それにも関わらず裁判所自身は、まったく同じこれらの資料をもとにしても、「捏造」とは認定できないと判示しているのだ。
これはあまりにメチャクチャだろう。裁判所自身が「捏造とは認められない」と判示しているのに、同じ資料を前提として、どうして文春と西岡に対してだけ「捏造と信じたとしても仕方がない」なんて判断ができるのか。この判決は何の説明も示さず、文春と西岡に対してだけ、自分たちよりもずっと緩い基準で「相当性」を認定したのである。
文春と西岡をどうしても救済したかったから、こんな論理矛盾を来しまくった判示をするしかなかった、という以外に評価のしようがあるだろうか。裁判所は論理的整合性ではなく、どうしても植村を勝たせたくなかったから無理やりこんなデタラメな判断をしたのだ。植村が、「従軍慰安婦」の被害を訴える記事を書いたからである。
10. 狂気に陥った司法による「恐怖」
こんな小学生でもわかるような自己矛盾を露呈させてまで、裁判所は政治的好悪だけで結論を出して判決を出した。
しかもこんなことが、東京と札幌の地裁と高裁で連続して行われたのである。これが裁判所の「集団的狂気」ではなくて、何だといえるのだろうか。
こんな狂った判決を裁判所が出した理由は、この国全体があたかも「従軍慰安婦問題は韓国の捏造、言いがかり」であるかのような狂った言説に冒されてきているからだ。それこそ、国家全体が「集団的狂気」に陥ってきていることを如実に意味している。
しかし本来の司法権の役割とは、「弱者の正当な権利の救済」のはずだ。国会や行政は「多数決の論理」にしたがって動いていくが、それだけでは弱者の正当な権利を救済できない。だからこそ、多数派から構成される世論に逆らってでも、事実と論理の整合性に依拠して毅然と判断を示すことが本来の司法の職責のはずなのである。
そのように機能すべき司法機関が、逆に世論と一緒に集団として狂気の沙汰に陥っている。これは国家として極めて深刻な事態である。
これほどまでに頭のおかしいことが公然と行われていて、どうして世論が大騒ぎにならないのか、不思議で仕方がない。
残念ながらこの国の裁判所が、事実と論理に基づき公正な判断を下すなどと、夢にも期待しない方がいい。
裁判所は集団的狂気に陥っており、質的にも大幅に下落して、正当な権利の救済などとてもできない。
そういう制度であることを前提として、この裁判という手続を利用して行くしかないだろう。
法に携わる弁護士という仕事に従事している身として実に悲しく、そして心底から恐怖を感じる事態である。
(敬称略) |