ジャニーズ事務所と日本社会の病理 |
穂積剛 |
2023年6月 |
1. 2020年2月のコラム
私がこのコラムで「裁判所が認定したジャニー喜多川による少年への「淫行行為」」を書いたのは、ジャニー喜多川が亡くなった2019年6月からしばらく経った、2020年2月のことだった。このときに私は、ジャニー喜多川による未成年の少年に対する「セクハラ行為」すなわち性加害行為について、これを正面から認定した2003年5月の東京高裁判決(前回のコラムで「2002年5月」と書いたのは間違い)を詳しく紹介して、このような判決が確定しているにも関わらず、それを報道することなくメディアが沈黙し続け、そのことによって被害が再生産されてきた問題について告発した。
週刊文春による一連のジャニーズ事務所批判のキャンペーンについて名誉毀損の成否が争われたこの訴訟について、最終的に文春側の記事の真実性を認めた東京高裁のこの判決は、その結論を知っている人はある程度いたと思われるが、この高裁判決の内容にまで踏み込んで判示を紹介した記事はそれまでなかったと思う。
そこで、以前からこの問題を知っていた私としては、法律家として過去の裁判例を調べることが比較的容易だったこともあって、この東京高裁判決を入手してその判示の内容を紹介することにした。要するに、誰も書かないから自分で書くことにしたのだ。
2.公然化したジャニー喜多川による未成年者性加害問題
もっともマスメディアの度しがたい権力に対する弱腰体質と批判精神の欠如を考えれば、当時はこの問題が拡大することは期待できないと思っていた。そのためそれ以降、このコラムのことはすっかり忘れていた。
ところがそのうち面白いことに気付くようになる。
ネットの検索エンジンで当事務所の名前を入力すると、続く検索キーワードの候補として「ジャニーズ」が表示されるというのを、事務所の事務員から教えてもらったのだ。その理由が、私のコラムがネットで検索されているからだというのである。
そして今年3月に、イギリスの公共放送であるBBCが『Predator: The Secret Scandal of J-Pop』(邦題「J-POPの捕食者 秘められたスキャンダル」)を公開したことがきっかけとなって再び問題に火がつき、さらに過去の被害者が4月以降相次いで実名で名乗り出て会見等を開いたことから、大手紙も報道することになって、ジャニーズ事務所の藤島ジュリー景子社長がネット上で謝罪動画と見解を公表する事態にまで至った。
3.「週刊文春」からの取材要請
コラムの記事が水面下で検索されていたからか、この問題が公然化してから私のところにも何件か問い合わせや取材申入があった。ハフィントンポストなど複数のネットメディアからの連絡や、「しんぶん赤旗」、「東京新聞」、それに「オンライン署名サイト ・ Change.org」で署名活動を開始したいという人物からの問い合わせもあった。
キャンペーンの先導役である「週刊文春」からの取材申入も2度ほどあったが、これについては断っている。なぜなら「週刊文春」は、元朝日新聞記者である植村隆(現「週刊金曜日」社長)の元「従軍慰安婦」金学順の記事について「捏造記事」扱いする報道を行って植村に重大な名誉毀損の被害を与え、植村の文藝春秋に対する名誉毀損訴訟の弁護団に私も参加して争ってきたからだ。この事件では、裁判所のあまりに偏見に満ちた異常な判断によって最終的に敗訴させられたが、その判示があまりにデタラメであることに疑問の余地はなく、文藝春秋が植村隆に賠償すべきであったことを今でも私は確信している。
この出来事から、私は文藝春秋の出版物は購入しないと決めており、それゆえ「週刊文春」への協力もすべて拒否することにした。ただ、取材を申し入れてきた「週刊文春」の記者に対しては、ジャニーズ事務所を追及するキャンペーン自体は支持する旨を伝えている。
4. 長期腐敗の多重支配構造
ジャニーズ事務所は謝罪動画と見解を公表するとともに、「外部専門家による再発防止特別チーム」を設置したとか、あるいは被害者に対する「心のケア相談窓口」を設置して対応したなどとしている。しかし現在でもジャニーズ事務所は、ジャニー喜多川による未成年者に対する性的加害行為自体を認めていないし、事実究明のため必須というべき第三者機関の設置もしておらず、それどころか最高責任者である藤島ジュリー景子自身の記者会見すら行っていない。
この程度の対応でジャニーズ事務所はこの問題を乗り切ろうと考えているようだが、その不十分さは明らかだろう。要するに事態の沈静化だけを狙って、小手先の対応で逃げ切ろうとしているのだ。
しかしこの問題は、単に未成年者に対する性加害行為がなされてきたというだけでなく、本来であれば未成年者を保護すべき立場にある人物からの加害であるという問題点、そしてその性加害が社長とタレントの卵という絶対的な支配・被支配の関係のもとでなされたという重大性、さらにジャニー喜多川に気に入られることがステージでの立ち位置やデビューできるかどうかの利害に影響していたという直接的な利益誘導による支配など、二重三重の強固な支配従属関係のもとで続けられてきたものである。
しかもこの問題は、それこそ1980年代後半から指摘されてきたもので、1999年には「週刊文春」でのキャンペーンも行われていたにも関わらず、結局は2019年にジャニー喜多川が亡くなるまで公然化することもなかった。つまり長期にわたって続いた支配・抑圧・性的搾取の構造であった。
5.腐敗の構造を持続させようとする勢力
このように、この問題に関する日本社会の自浄能力の欠如は明らかであって、要するに根底から腐りきっているのである。しかも何十年もの長期にわたって。
これほどまでに腐りきった問題は、最後まで膿を出し切るのでなければ、抜本的な改善や再発防止など期待できるはずがないし、これを許してはならない。
しかしながら、他方で例えばテレビ朝日の社長である篠塚浩は、「性加害は決して許されない」などと言いながら、「タレント起用に変更はございません」として、これまでどおりジャニーズタレントの起用を続けようとしている。テレ東社長の石川一郎も、「タレントに罪や問題などがある訳ではない。さまざまな形で活躍していただきたい」程度のコメントしかしていない。
けれども、ジャニーズタレントをこれまでと同じく起用し続けていくのであれば、それこそジャニーズ事務所にとっては最高の結果である。タレント自身に罪がある訳ではないのはその通りだとしても、何もしないのであればタレント起用の報酬は事務所に支払われ続けるのであり、結局はこれまでの腐敗と抑圧と搾取の構造が持続するだけのことになるのは自明の理だ。実際には、こういう連中のこうした事なかれ主義の対応が、この腐った構造を援助し支えてきたのではなかったか。
6.自浄能力の欠如という病理
正直なことをいうと、ジャニーズにも芸能界自体にもさほど興味がある訳ではない。私が興味を持っているのは、この問題が日本社会における自浄能力の欠如、権力・権威に対する批判精神の欠如の問題の象徴の一つだと考えているからである。
大日本帝国憲法下において天皇制軍国主義が暴走し朝鮮や中国を侵略して支配したとき、日本社会は完全に自浄能力を失って破滅に向かって突き進んでいった。この天皇制軍国主義の暴走を止めたのは、中国大陸での戦線の泥沼化と、米軍及び連合軍に対する日本の敗戦であった。これを契機に現在の日本国憲法が外圧によって与えられたことにより、ようやくこの国は形式的には国民主権国家として再出発することになった。
しかしこの国では、この暴走した侵略戦争の最高責任者である昭和天皇の責任追及がなされることが、ついに一度としてなかった。それどころかこの国において、侵略先で日本軍が行った数多の残虐行為・戦争犯罪行為について、自らの力で処罰した例はただの一つすら存在しないで終わった。ドイツが今に至るもなおナチスの犯罪を自国で追及しているとのとは、天と地ほどの相違である。
そして今また、戦後長期にわたっている右翼・自民党政権の存続によって、日本社会は右へ右へと際限なく右傾化するばかりとなり、同時に社会の知的水準も劣化する一方となっている。特に安倍政権以降、その傾向には明らかに拍車がかかっている。A級戦犯岸信介を典型例とするように、戦前において天皇制軍国主義の暴走に加担した連中が、戦後の公職追及解除により復活してきて結成された勢力が現在の自民党の系譜である。戦争責任がきちんと追及されていれば、今日のような事態に陥ることはなかっただろう。
この絶望的なまでの自浄能力のなさ、批判精神の欠如、権力に対する弱腰体質こそが、この国における根本的な病理であると私は思っている(近年ではネトウヨという名の、権力者に盲従することを無上の喜びとする「奴隷根性」とでも呼ぶべき精神の連中が急増している)。自浄能力のないこの国が、やがてまた暴走を始めるのはもはや目前、時間の問題になっているのではないだろうか。
7.分水嶺かもしれないジャニーズ問題
ジャニーズ事務所を中心に長期にわたって続けられてきたこの腐敗の構造も、同様の病理がその根底に横たわっている。今回のジャニーズの問題が、BBCという外国の放送局の報道、すなわち外圧によってしか顕在化させることができなかったというのも、まったく同じ構造がそこにあるからだ。
天皇制軍国主義による侵略戦争の責任は、外圧によってこれを自浄化する機会を与えられたものの、結局はこの社会では自らの手で追及されないままとなってしまった。
規模は小さいとは言え同じように外圧によって始まったこのジャニーズ事務所の問題を、日本社会は自らの力で根本的に解決することができるか。あるいは小手先の対応がされただけで、腐敗の構造が生き延びることになるのか。
それは、衰退を続けるこの日本社会が、自浄能力ある健全な国家としての道に進み直すことができるかどうかの、一つの分かれ目となるかもしれない。
(敬称略)
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