わたくしと食い逃げ犯
(10年ぶりのハードボイルド編4) |
鈴木 周 |
2024年9月 |
それは暑い夏の夜だった。
オレは、国選弁護の被告人と面会するため、東京の北の方にある某町の警察署の接見室に来ていた。よく刑事ドラマで出てくる、穴の開いたアクリル板で仕切られた部屋だ。
留置係の警官に腰紐を引かれ、その男が入ってきた。オドオドした、40絡みの小男だった。
罪名は詐欺。起訴事実によれば、金を払う意思がないのに、居酒屋で飲み食いしたんだそうだ。普通に考えると窃盗みたいな気がするが、「金を払えないことを隠して、酒や食べ物を騙し取った」ので詐欺なんだ。
オレは、簡単な自己紹介のあと、いつもと同じく起訴事実が間違いないか、確認した。前科も詐欺で、執行猶予期間中だから、今回有罪なら実刑確実だ。前のと併せて3年やそこらはムショ行きが確定だろう。
【男】 |
起訴事実はそのとおりです。間違いありません。 |
【ス】 |
そうか。それじゃ裁判ではもう反省の態度を見せるしかないね。執行猶予期間中なのに、どうしてまたやっちゃったの? |
聞けば、男は、若いときから働くのが大嫌いで、ちょこっとアルバイトをしては、しばらく仕事をせずに、アパートの一室で酒を飲んで過ごし、そして金がなくなると、また嫌々アルバイトに出かけるという生活を長く続けてきたんだそうだ。
そして、こないだまた手許資金がなくなったんだが、今回は、「もう、仕事イヤーっ! ムショにぶち込まれてもいいから、最後に居酒屋で好きなだけ飲み食いするーっ!」と決心して、やっちまったんだそうだ。なんで、考えのベクトルが、バイトではなく食い逃げの方向に行ってしまうのか、少々理解に苦しむが、怠惰な生活がもう心にも体にも染みてしまっているのだろう。
【ス】 |
それで、どこの居酒屋に行ったんだい? |
【男】 |
駅前の「つ〇八」です。 |
【ス】 |
(最後なんだから、もちょっといい店入ればいいのに‥‥‥)そうか、つ〇八か。それで店では何を頼んだんだい? |
【男】 |
ホッピーを二つと、あと、お新香とほうれん草のおひたしも頼みました。 |
【ス】 |
も、もちょっと高いもの頼めばいいのに。だって最後のつもりだったんだろう? |
【男】 |
ああん? ちょっと、弁護士さん、野菜ってのはね、人間にとってね、大事なんだよ(怒)! |
【ス】 |
(ワー、怒り出した。なんの地雷だよこれ?) そ、そうだね。ごめんごめん、野菜大事だよね。 |
【男】 |
そのあと、揚げ出し豆腐とお刺身盛り合わせと、あとお酒を二合で二本くらい頼んだような気がします。 |
【ス】 |
あ、そうなのか。じゃあ被害額5000円くらいなのかな? |
【男】 |
はい、そしたら。 |
【ス】 |
そしたら? |
【男】 |
カウンターから店長さんが出てきて、「お客様。今日、お勘定のお金はお持ちでしょうか?」って聞かれたんです。 |
【ス】 |
ああ、風体とか態度見てて、怪しかったんだろうね。それでどうした? |
【男】 |
俺は、「フッフッフ、金なんてないよ! 何? それがどうかしたの?」とか、見栄きりながら開き直っちゃったんです。 |
【ス】 |
あーあ、酔っぱらって気が大きくなってたんだね。「すんませんすんません、二度とやりません、お店にも来ません」って謝ったら、「もう来んな!」で追い出されて終わりだったかも知れないのに。店長さん怒っただろ? |
【男】 |
はい。その通りです。奥の事務所に連れていかれて、警察を呼ばれました。 |
そうか、それで警察に捕まって、今このように目の前にいるのか。まあ、そうなるよな。と、オレは勝手に想像したのだが、そこから話は、予想と全く異なるスリリングな新展開へと突入したのだった。
【男】 |
それで、10分くらいしてお巡りさんが来たんです。 |
【ス】 |
まあそうだろうね。 |
【男】 |
そのお巡りさんが、すごく怖い人だったんです。身体が大きくて、色も黒くて、こう、「国家権力そのもの」って感じで。 |
【ス】 |
まあ、ビクビクしてたせいもあるだろ。で、すぐ捕まったのかい? |
【男】 |
いいえ。 |
【ス】 |
へ? |
【男】 |
俺は、そのお巡りさんが、あまりに怖くて、いてもたってもいられず、その脇をすり抜けて店外に逃げたしたのですっ! |
【ス】 |
えーっ? ずいぶん思いきったことするねー。すぐ捕まっちゃうだろうに‥‥‥。 |
【男】 |
それがさ、お巡りさんって、結構足が遅いんだよ。必死で逃げてたら、少しずつ差が開いていくんだよね‥‥‥。 |
そ、そうなのか。だけど確かにそれはあるかも。こっちは身軽な労務者風。だけどあっちは、拳銃だの棍棒だの重いものジャラジャラ下げて、足元は安全靴みたいなブーツだし、全力で走ったら労務者が勝つかも‥‥‥。
あれ? 差が開いてる? もしかして逃げ切れるかも? 神様ー! って感じか。
しかし、そうは問屋が卸さなかった。
【男】 |
だけどさ。 |
【ス】 |
(身を乗り出して) うんうん、どうした? |
【男】 |
俺、走っているうちに、腹具合が悪くなっちゃったんだよね。 |
【ス】 |
ああ、それありそう。ホッピーとほうれん草って、イメージ的にだけど、なんかすごく食べ合わせ悪そうだし。あと国家権力の恐怖でメンタルやられてお腹にグルグルきたのかも。それじゃ、そこで捕まっちゃったんだね。 |
【男】 |
いいえ、ちょっと漏れちゃったんですけど、それでも俺は全力で逃げ続けたのですっ! |
【ス】 |
なんと! 後ろから迫り来る国家権力への戦慄、そして下腹部を襲う生理的な戦慄! 心が千々に乱れてしまいそうだ。人生最大の危機! |
【男】 |
でも、やっぱり耐え切れなくなって。 |
【ス】 |
おお、どうしたんだ? |
【男】 |
角を曲がったところで、立ち止まり、ジャージとパンツを下ろして、道路に人生を放出したのです‥‥‥。(注 本作は上品な短編集ですので、「人生」にしておきます)。 |
【ス】 |
ああ、人生を放出してしまったか。それじゃすぐに追いつかれたんだね。お巡りさんはどうしてた。 |
【男】 |
はい、とても、すごく、ビックリしていました‥‥‥。 |
【ス】 |
わはは! そりゃそうだよなー。「待てー!」って追っかけて角曲がったら、目の前で人生放出してたら「ひーっ」って驚くよ。無理もない。で、そこで捕まったの? |
【男】 |
いいえ。 |
【ス】 |
な、なんですって。ま、まさか‥‥‥。 |
【男】 |
そう、俺はその場で、人生の付着したジャージとパンツをバッと投げつけて、お巡りさんが「きゃー!」って言ってる隙に、フルチンで逃走したのですっ! |
【ス】 |
(頭を抱え)ひえーっ、なんてことするんだーっ! ‥‥‥それもう、食い逃げ以外に、様々な犯罪が成立してしまいそうだぞ。 |
しかしこうなると、もう差は歴然。こちらは人生を放出しきってフルチンになった労務者、あちらは重たい国家権力+人生付き。こ、これは逃げ切れるのでは?
【男】 |
そう思ったんだけどさ |
【ス】 |
どうしたんだ。 |
【男】 |
そこで、すぐに、俺の足が止まっちゃんだよね。自分でもなんでか分かんないんだけど。 |
【ス】 |
‥‥‥ああ、そうか。きっと、君の足を止めたのは、「人間の尊厳」だな。「怠惰な生活を送る俺」「無銭飲食する俺」「お巡りさんから逃走する俺」「道路に人生を放出する俺」までは許せたけど、「人生を放出したあげくフルチンで逃走する俺」まではプライドが許さなかったんだ。無意識下で行動が制御されたんだろう。 |
【男】 |
そういうもんですかね。俺、そんな高尚なこと考えてなかったんですけどね。 |
【ス】 |
それこそが人間の価値だろう。根っこのところにちゃんと残ってたんだよ。よかったじゃないか。まあ、何年か刑務所に行くのは確実だから、中にいる間に、これからの人生をよく考えてみるといいよ。 |
【男】 |
はい、そうします。弁護士さん、今日はありがとうございました。 |
とまあ、多少の脚色はあれど、概ねこんな感じの刑事事件だった。
しかし、オレは、この接見のシーンがあんまり面白かったもんで、それ以外、彼にどんな弁護をしてあげたのか、彼が懲役何年だったのか、全く覚えていないんだ。 今はもう、彼が出所して、穏やかな生活を送っていることを願ってやまないオレだ。 |