「あのちゃん」とキリスト教と裁判官 |
穂積剛 |
2024年10月 |
1.「あのちゃん」とキリスト教
最近の私のお気に入りの芸能人は「あのちゃん」である。
バラエティ番組などで見かけるようになったが、ちょっと舌足らずな特徴あるしゃべり方、自分のことを「ぼく」という呼び方、番組内で我が道を行き、周囲を気にせず相手が誰だろうと物怖じしないで発言する度胸、幼く見えるのに運動神経が抜群によいというギャップなど、出てきたときから「普通の子とは違う」と感じていた。代表曲が「ちゅ、多様性。」と、多様性を重視しているのもいい。
「お気に入り」という程度でいわゆるファンではないので詳しいことまでは知らないが、学生時代にイジメに遭ったり引きこもり状態だったりしていたらしい。高校も中退のようだ。以前のいわゆる「アイドル」なら考えられないような経歴だろう。
ところが先日の番組で、女性芸能人たちがスポーツに挑戦するという企画をやっていて、あのちゃんが走り高跳びを飛ぶ場面があった。そのとき、番組内での最高記録の高さに挑戦するという直前で、あのちゃんが十字を切っているシーンがあったのである。
このときの十字の切り方は明らかに普段からやっている手慣れた動作で、こうして神に祈った成果か、あのちゃんはバーを越えることができ挑戦を成功させた。しかもあのちゃんは成功後にも感謝の十字を切っていた。そのことを聞かれたあのちゃんは、「神に祈ったの」と説明していた。
私はキリスト教についても詳しい訳ではないが、額⇒胸⇒左肩⇒右肩の順番での右手の動きは、カトリック教徒の十字の切り方らしい(プロテスタントは十字を切らないことが多い)。そうするとあのちゃんは、カトリック教徒なのだろうか。ネットで検索してみたが、確実な情報は見つからなかった。
ただ、あのちゃんがキリスト教徒だとするなら、納得できることが多い気がする。
あくまで一般論としてだが、キリスト教徒は唯一神である神と常に一対一の関係で内面的に対峙して向き合うことが求められる。絶対神という基準が自分のなかにあるので、自らが正しいと信じるものを貫くことができる。大勢に順応し集団に従うだけの多くの日本人のメンタリティとは、この点が根本的に異なる。
あのちゃんが学校になじめずイジメに遭ったり引きこもりになったりしたのは、大勢に順応しないそうした本質が一つの要因だったのかもしれない。逆に今はテレビ番組で我が道を行く「無双状態」になっているのも、周囲に流されず自分の信念を貫ける意思の根底部分に、キリスト教徒としての信仰があったからなのかも知れない。
2.寺西和史・岡口基一という元判事
そういえば、と思う。
以前にも書いたかもしれないが、1998年に当時仙台地裁の裁判官だった寺西和史判事(現在は中途退官)が「盗聴法」の反対集会で会場から「パネリストとしての参加を辞退した」と発言しただけで、裁判所法に定める『積極的な政治活動』だとして分限裁判により戒告処分にされたという事件があった。欧米では裁判官が労働組合を結成してデモをしているのが普通だというのに、あまりにアナクロでデタラメな判断は最高裁でも維持されたが、15人のうち5人の最高裁判事が反対意見を書く結果となった。
この寺西判事は両親がカトリック教徒で、自分も洗礼を受けたことを公言していた。信仰心はないと自分でも述べているけれども、そうした環境に育ったことが、寺西判事のこうした揺らぎのない言動に影響していたことは否定できないだろう。
この事件から20年ほどが過ぎて、今度は岡口基一判事(現在は罷免)に対して同種の圧力がかかった。
岡口判事は現役裁判官としてツイッター(現「X」)への投稿を頻繁に行っていて、その投稿の中に不適切な内容があったとして分限裁判により最高裁から2回の戒告処分を受けた(2018年及び2020年)。
さらにFacebookでの投稿を理由として、国会に設置された「裁判官弾劾裁判所」において、岡口判事は2024年に「罷免」の判決を受け、裁判官としての地位どころか法曹資格自体を失う(弁護士にもなれない)という極めて重い処分を受けている。これは退職金すら支払われない処分である。
3.岡口判事に対する非常識な「罷免」判決
岡口判事のSNSへの投稿は、不注意があったとしか思われないものも確かにあった。内容的にも、寺西判事のケースのように立法内容に意見するような公益的なものではなかったかも知れない。最後のFacebookでの投稿も、当局に口実を与えるような内容で、「どうしてこんなことを投稿するかな」と思うような不注意な内容ではあった。
しかし岡口判事は、裁判官であっても表現の自由を行使すべきであり、これを自粛すべきでないという明確な信念を持って表現活動を行っていた。岡口判事は裁判所当局から何度もSNSでの発信を止めるよう圧力を受けていたが、これを撥ねつけて意見表明を続けていたのである。
前述したように欧米では裁判官が意見表明するのは当たり前であり、労働組合を作ってデモで行進している。裁判官自身が自分の権利を制約されているようでは、国民の自由と権利を擁護する判決を書くことなどできない。
岡口判事のFacebookでの投稿も不注意ではあったが、裁判官を罷免させ退職金を取り上げ、法曹資格まで失わせるような内容では絶対になかった。
そもそも職を奪って退職金を取り上げるというのは、一般の労働者で言えば「懲戒解雇」と同じである。法曹資格まで喪失するという意味では、懲戒解雇以上に重い処分と言ってよい。これは本来、会社の金を横領したとか背任行為で会社に損害を与えたとか重大な経歴詐称をしたとか、とても看過できない著しい不当行為があった場合にのみ認められる処分である。私的な立場でSNSに不適切な投稿をしたくらいのことで、一般の労働者を懲戒解雇にすることなど不可能である。
裁判官はむしろ憲法78条で身分保障がなされている。裁判官が簡単に職を奪われるようでは、国民の自由と権利を守るような判断をすることができないからだ。
憲法という国家の最高法規で身分保障されているはずの裁判官が、どうして一般の労働者よりも簡単に罷免(懲戒解雇)される結果になるのか。弾劾裁判所で岡口判事の罷免に賛成した国会議員たちは、頭がどうかしているのではないかとしか私には思えない。
4.憲法76条3項とキリスト教
このように岡口判事に対する弾劾裁判による罷免は明らかに不当なものだったが、実はこの岡口判事も父親がキリスト教の牧師を務めていた。名前の「基一」はキリスト教(基督教)から取ったそうである。
このことについて岡口判事自身も、「私は、キリスト教会の家庭に生まれ、人間は神の前で平等であると言い聞かされて育ったため、そのことが若干影響しているのかも知れません」(『裁判官は劣化しているのか』羽鳥書店)と、自分の考え方に影響していたことを記載している。
「牧師」ということだからこちらはプロテスタントだが、寺西判事も岡口判事もどちらもキリスト教と関係があったことになる。
もちろんクリスチャンの裁判官など他にもたくさんいるだろうから、キリスト教だけがこうした一貫した信念の要因ではないだろうが、影響があったことは否定できないように思う。
憲法76条3項は、「すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行い、この憲法及び法律にのみ拘束される」と規定している。
裁判官は、一対一で憲法と法律に向き合い、その意図するところを客観的な法解釈によって探求することで、判断することが求められる。逆にいえば、時の権力者や社会の世論、司法当局からの圧力などにその判断を影響されてはならない。どんなに周囲からの圧力があっても、裁判官はそれを排除して憲法と法律のみに従って判断すべき法的義務がある。
しかしこれこそまさに、キリスト教によって唯一神と常に対峙することで自らの言動を律することに普段から慣れているキリスト教徒に向いている職業倫理ではないだろうか。集団に順応し大勢に従うことが多いのが特徴の日本社会にあって、むしろキリスト教徒のような資質は憲法が求める裁判官像に合致するものであるように私には思われる。
ところがキリスト教徒であり自身の思想信条に忠実な裁判官こそ、処罰して裁判所から追い出そうとしているのが今の司法当局であり国家権力なのである。酷い話だと評するほかはない。
5.ジャーナリストの職業倫理の例
もと岩波書店『世界』編集長だった熊谷伸一郎(私の古くからの飲み仲間)社長が今回新たに出版社『地平社』(こちらをご覧ください)を立ち上げ、雑誌『地平』を毎月発行するとともに、精力的に多くの書籍を刊行している。
出版社立ち上げ後最初に発行された書籍の一つが『NHKは誰のものか』(長井暁著)(こちらをご覧ください)であり、2001年にNHKの番組「戦争をどう裁くか」のシリーズで「女性国際戦犯法廷」を取り上げる番組『問われる戦時性暴力』を制作するにあたって、安倍晋三(当時官房副長官)・中川昭一という国会議員がNHKに圧力をかけ、番組内容を大幅に改変させた事件の詳細がこの本の中で語られている。
この件について著者は番組の担当デスクとして関与していた。そして政治的圧力に屈して番組改変を強要してきたNHK上層部の実態について、2005年に1月に記者会見を行ってその内容を暴露した。これに対しNHKは組織を挙げて政治介入の事実を否定し、そのための特別番組まで報道して事実を歪曲する報道を行った。その後に著者はこの件について法廷でも証言している。
そしてこの出来事が要因となって著者は報道番組の現場から外され、「放送文化研究所主任研究員」という仕事に左遷されている。
しかし、こういう言動こそがジャーナリストとしての良心に従った行為ではないだろうか。こういう良心に従った行動を、憲法は裁判官に対して求めているのではないのか。
6.裁判官としての資質
裁判官になるのにキリスト教徒でなくてはならないということはない。
しかしキリスト教の思想形態は、憲法が求める裁判官像に親和性があることは間違いないように思われる。権力者や周囲の圧力に抗し、毅然として正しいと信じることを貫ける資質である。
周囲の同調圧力に容易に流されて自己を確立することができない日本社会と異なり、韓国であれだけ民主化が実現できたのも、韓国社会にキリスト教徒が多いことがその要因の一つではないかと思っている。欧米先進国が民主主義でも先進的なのは、キリスト教の存在とおそらく無縁ではないだろう。
こうしてキリスト教を持ち上げてきたが、私自身はキリスト教徒ではない。
そして、キリスト教徒にもいろんなのがいるのもまた事実である。クリスチャンが全員こうした資質を有している訳ではもちろんない。
7. 「ピン」から「キリ」までいるキリスト教徒
今回自民党総裁となり首相になった石破茂はクリスチャンだそうである。
とりあえず首相になる前までは、自民党の中では異端的に「正論」っぽいことを言っていた。もしかするとこれもキリスト教徒であることが影響していたのかもしれない。
もっとも首相になった途端に今までの主張を封印し、自民党の論理と一体となってろくなことをしなくなった。
前言撤回して衆議院を早期解散するは、裏金議員を全員公認扱いにする(その後に一部非公認に変更)は、統一教会と党との関係を調査する気配も見せないはで、ひどいものである。
さらにもっと言えば、党の最高顧問に就任したあの麻生太郎も、実際にはクリスチャンだという。
キリスト教徒にもピンからキリまでいるということが、よくわかる話ではなかろうか。
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