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コラム・弁護士

 
   

光市母子殺害事件弁護団と「立憲民主主義」

穂積 剛

2007年8月

弁護士 ・ 穂積 剛

山口県で1999年4月に起きた「光市母子殺害事件」で、広島高裁での差し戻し審の弁護団に対し、各弁護士が所属する弁護士会への懲戒請求が続いているという。さらに5月には、日本弁護士連合会に対して散弾銃の銃弾のようなものが同封された脅迫書面まで送り届けられたとのことである。

私はこの事件のことはほとんど知らないが、弁護団の弁護士の中には知り合いが数人いる。特に、研修所での同期生でしかも同じクラスにいた弁護士が二人もいる。二人とも、極めて優秀で真面目な弁護士である。
この事件の弁護団の弁護士たちが、どうしてここまで世間の集中攻撃に晒されているのか、私にはわからない。どうやら差し戻し審になって、殺害が事故であるかのように主張しているのがケシカラン、ということのようだ。

私にはわからないが、もしかしたら彼らにもやり方が良くないところもあるのかも知れない。しかしながら、むしろ私に言わせるなら、原則的に彼らは弁護士としての職責を全うしているだけであり、それは何ら非難されるようなことではない。

考えてもみてほしい。彼らはこれだけ世論を敵に廻し、あちこちで非難され大量の懲戒請求さえ受けながらも、なお怯むことなく被告人の利益のために身体を張って取り組んでいる。これは弁護士として、褒められることではあっても批判されることではないではないか。しかも彼らの弁護活動は、基本的にすべてボランティアなのだ。

これが、あなた自身の事件を受任してくれた弁護士だったらどうだろうか。この弁護士たちは、あなたの利益を護るためなら、世間を敵にまわして自分が懲戒請求されながらも、なお身体を張って弁護活動を行ってくれるのだ。こんなに頼りになる弁護士たちはいない。逆に、世間の非難を受けたらすぐに辞任したり、世間の目を気にして弱気な弁護活動しかしないような弁護士の方が、あなたは良いというのだろうか。少なくとも私だったら、そんな度胸のない弁護士に自分の事件を頼みたくない。

弁護団の弁護士たちに対する脅迫行為を含むこうした集中攻撃に対し、日弁連を始め、全国各地の弁護士会が次々と抗議声明を出している。たとえば日弁連の声明
http://www.nichibenren.or.jp/ja/opinion/statement/070711.html)は、刑事被告人が弁護人を依頼することができるのは憲法上の権利であり、「いかなる場合であっても、弁護人を依頼する権利が保障され、十分な防御の機会が与えられなければならない」と指摘する。この権利は、「人類が歴史を通じて確立してきた大原則」であり、弁護人は「被告人のために最善の努力をすべき責務を負っている」と述べている。

このような弁護人の活動を、外部の脅迫や妨害、干渉から守るべきことは、我が国だけでなく国際的な共通認識となっている。国連の「弁護士の役割に関する基本原則」は、「政府は、弁護士が脅迫、妨害、困惑あるいは不当な干渉を受けることなく、その専門的職務をすべて果たし得ること、自国内及び国外において、自由に移動し、依頼者と相談し得ること、確立された職務上の義務、基準、倫理に則った行為について、弁護士が、起訴、あるいは行政的、経済的その他の制裁を受けたり、そのような脅威にさらされないことを保障するものとする」と定めている。

そもそも、裁判の仕組みというのは「三角構造」になっている。すなわち、第三者的な判断機関である裁判所の前で、攻める側と守る側がそれぞれ主張と立証をつくし、その内容をもとに裁判所が判断をして判決を下す。この構造が、刑事事件では攻める側が検察官となり、守る側が弁護人となる。民事事件では、攻める側が「原告」で守る側が「被告」ということになる。そして裁判所の前でのこの攻撃と防御の活動は、これを十分に保障しなければならない。十分な主張と立証があって初めて、第三者機関たる裁判所は適正な判決を下すことができるからである。

ところが、世間の圧力や権力からの干渉により、このような主張立証活動が制限されるとしたらどうだろうか。そのために当事者が主張立証を尽くせず、訴訟当事者のいずれかにとって不利な判断が下されたとしたら。それこそ、こうした裁判における「三角構造」の根底を覆す事態となる。これを認めるとしたら、それは「裁判の自殺行為」というべきだろう。

弁護士であれば、あるいは法律家であるなら、当然にこのような訴訟の構造を熟知しているはずである。だからこそ、日弁連を始めとする各地の弁護士会の声明は、弁護団の弁護活動を不当に制約してはならないとアピールしている。これは法律家としては当然のことなのだが、逆にこの当然のことを理解していない弁護士もいるから頭を抱えてしまう。

そもそも今回の弁護士会に対する懲戒請求を、こともあろうにテレビ番組で呼びかけた「弁護士」がいる。テレビのバラエティ番組にもよく出演しているらしい、あの弁護士である。憲法も刑事訴訟法も訴訟の基本的構造についても何も理解できておらず、日弁連を始め全国各地の弁護士会の声明とは正反対のことを声高に主張するこの「弁護士」も、実は私の同期なのである。これはたいへん嘆かわしいことだ。この「弁護士」には、同期で私と同じクラスの二人の弁護士たちの爪の垢でも煎じて飲んでいただきたいと思う。

実は私にとって興味があるのは、どうしてこれほどまで容易に、弁護団の弁護士たちに対する非難の合唱が起きてしまうのかという点にある。

確かに、遺族にとっては被告人を許せない気持ちがあるだろう。世論の多くが、その心情に同調するというのもわからないことではない。しかし、たとえば欧米諸国だったなら、このような弁護団批判の大合唱が果たして起こり得ただろうか。

私にはこれは、むしろ日本の「立憲民主主義」の限界を示しているように思える。三権分立とは、民主主義に基づく選挙によって選ばれた議員から構成される国会が立法を行い、その法律を行政が執行し、そのような立法と行政を司法が憲法に照らして監視監督するという「構造」になっている。ここで、立法と行政は「多数決の原理」によって機能しているが、司法には原則として「多数決の原理」がない。司法は、「基本的人権の尊重」という基本理念を出発点として、「多数決」ではなく「理性」でもって判断するのである。

どうしてこのような「構造」になっているのか。それは、近代国家の究極理念が「基本的人権の尊重」という点にあるからである。

もちろん国家は集団から構成されているから、大勢に関わる問題は国会で「民主主義」をもとに決めて行政が行わざるを得ない。しかし「民主主義」は、常に多数派の権利を優先させるので、ときとして少数者の権利が侵害されることもあり得る。そのような少数者の権利を擁護するためにあるのが、「司法」すなわち裁判所の権能なのである。もともと近代国家の出発点は「基本的人権の尊重」にあるから、裁判所が「この権利を守れ」と判断したなら、立法も行政もこれに従わなければならない。これが「司法の優越」である。

ちょっと難しい話になったが、これこそが近代国家の「基本構造」である。「基本的人権の尊重」を究極理念とする「立憲民主主義」においては、多数決での決定よりも「司法」での「理性的な判断」が優先されなければならない。

ところが、「基本的人権の尊重」の理念が理解されず、「立憲主義国家」として未成熟な状態にあると、三権分立に基づき「司法」での判断が多数決に優先するとの理性的議論が通用しなくなる。そして、多数の意見に逆らう少数意見が阻害され、最終的には少数意見が「非国民」扱いされていくことになる。ちょうど、今回の弁護団が世間の集中攻撃を受けているように。

しかし戦前の我が国は、まさにそういう状況にあったのではないだろうか。国家総動員体制に従わない少数者は「非国民」扱いされていたし、もちろん「基本的人権の尊重」なんて概念はなかった。「司法の優越」なる考えは存在せず、理性的な議論よりも、感情的な多数者の論理が優先されていた。その結果として我が国は、権力の暴走に対するコントロールが効かず、周辺諸国に多大なる損害を与えた挙げ句に、自国も破滅の危機に瀕することとなった。

戦後になって「立憲民主主義」が導入され、私たちは「基本的人権の尊重」を究極理念とする「司法の優越」する社会を享受するようになったはずである。そのような成熟した「立憲民主主義」社会が真の意味で成立するためには、この「司法の役割」が社会において広く理解されていなければならない。しかし司法の役割が本当に理解されているなら、前述したような「裁判の三角構造」を無視する今回のような弁護団攻撃には、ならないのではないかと思うのである。結局は、我が国に「立憲民主主義」が根付いていないが故に、弁護団の弁護士たちが批判に晒されているのではないのか。

そうだとすれば、今回の現象はまさに、我が国の「立憲民主主義」が未だに未熟であることを示しているのであり、いつまた「立憲民主主義」を投げ捨てて軍国主義体制に陥ってしまうかも知れない危険を露呈させていることになる。私たちは、現在に至るもなお戦前の軍国主義国家体制を克服できていないのではないか。これほど恐ろしい話はない。私たちは、戦前のあの暗い社会からの教訓を、もっと真剣に学ぶべきである。

 

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