関弁連寄稿「豪雪の長岡支部 銀風吹きすさぶ雪中行軍!」その2 |
鈴木 周 |
2014年7月 |
平成26年に入ってから、私は長岡の天気と積雪情報が気になって仕方なく、ついに「お気に入り」に長岡アメダスを入れ、出勤前にスポニチアネックスと一緒にチェックするのが日課となった。幸い1月前半は大寒波が次々到来し、順調に雪も積り、一時は60cmを超すところまで行った。ところが、1月中旬から下旬にかけて、シベリア寒気団がどっかに行ってしまい、毎日晴れ晴れと晴れて、降っても雨、そのため積雪はどんどん減っていった。私は、長岡市民に悪いと思いつつも、毎日、北に向かってハンニャラホンニャラと雪乞いをしたが、思いは天に届かず、ついに決行日が近づく頃には10cmにまで減少してしまった。10cmじゃ東京の三多摩あたりでも二年にいっぺん位は降るが、せいぜい中央線が止まったりする程度のものである。銀風吹きすさぶ雪中行軍のはずが、「行ってみたらポカポカ陽気。雪もなくてとっても快適でした。」ってんじゃ、記事になんなくて困るじゃないかー! …と思っていたら、待てば海路の日和あり(逆だけど)、決行前日2月3日のニュースで、「明日からこの冬一番の寒波到来。新潟では三日三晩雪が降り続けるでしょう。」との予報が出、天気図を見ると長岡の上には、RPGのボスキャラみたいな巨大雪ダルマが鎮座しているのを見て、私は喜びのあまりパチパチと手を叩いた。どうせなら大雪三日目に行きたかったが、そこまで望むのは贅沢というものであろう。
決行当日の2月4日(火)、朝の天気予報で確認すると、やはり終日雪、そして最高気温は0度と、かなりハードな天候となっていた。そのため、隊員たちには軽装を指示しておきながら、隊長自ら怖気づき、背広の下にゴルフ用のハイパー股引上下(スパイダーマンみたいなやつ)を着こみ、さらにズボンが濡れないようにゴルフ合羽の下も用意した。靴も膝まである釣り用の長靴にしようかと思ったが、持ち歩くのが大変なのでやめた。コートはいつもどおりライナーなし、マフラーは荷物になるので巻かなかった。
朝10時に事務所に出、メールチェック等の仕事をこなし、11時半に、カメラ、ボイスレコーダー、温度計をもって東京駅に向かい、グランスタの「銀の鈴」前で阿曽山氏と合流した。グランスタで弁当とビール、そして長岡への土産(錦豊林のかりんとう)を買い、12時32分の新幹線に乗るためにホームに行ったところ、三々五々隊員たちが集まってきた。灼熱の熊谷の時と同じ、阿曽山大噴火氏、関弁連編集長西岡毅氏、友人で二弁の山本純一氏のほか、今回は「面白そうだから連れてってくれー、自腹でもいい。」という声があちこちから出、東弁編集の古関俊祐氏、遠く山梨から井上昌幸氏、同じく遠く水戸から鈴木大輔氏らが新たに探検隊に加わった。若手からベテランまで総勢7人、バラエティに富んだ構成となり、隊長は満足の笑みを浮かべたのだった。
新幹線に乗りこんだら、早速駅弁食べつつ宴会、のはずが、三人掛けシートは向い合せにすると、前のシートのテーブルが使えないため、窓際の人以外ビール置き場がなくなるということが判明した。しょうがないので、弁当だけ先に食べ、いろいろ話をしつつビールを飲んだ。ビールは2本までにしような、と言っていたのだが、井上隊員がやる気があるのかないのか甲州ワインと栓抜きを持参して来ていたため、隊員からヤンヤの喝采を浴び、さらに酔いが深まっていったのだった。
この日は関東でも少し雪が降った日で、高崎を過ぎるあたりから、うっすらと家々の屋根に雪が積もっていた。が、やがて赤城を過ぎて、大清水トンネルを抜けるとそこは…ドヒャー! ここで文豪なら小説のさわりをひねり出すところだろうが、我々は文豪ではないので、各自、「ギョエー!」とか、「シェー!」などと、奇声を発するのみであった。
そこは一面の銀世界で、家と言わず道路と言わず雪がうずたかく積もっており、スキーヤーが楽しそうに丘を滑走していた。これはエライことだね、このあと大丈夫かね、と改めて心配になった。なにしろ、山本隊員は普通の背広に革靴、井上隊員は暑がりなんだそうで、なんと背広が夏物、阿曽山氏は布のスカートに、何を考えてるんだかメッシュのスニーカー、古関隊員は背広ではなく「ちょっとコンビニ行ってきます」みたいな普通の恰好で、それぞれ今後の苦難が予想された。大輔隊員だけは、隊長の言葉を信じて、休日に石井スポーツに行き、「アノラック下さい」と言ったところ、「アノラック…相当なご年配の言葉ですね」と言われたそうだが、無事にアノラック様のジャンパーとズボンを購入し(3万円弱)、まず防寒は万全の重装備と言ってよかった。ちなみに「スノトレないんですか」と言ったら、登山用のアイゼンも勧められてしまい、とても「長岡に行くんです」と言い出せず、そそくさと出てきたそうだ。なお、隊長は、顧問先の会長が「長岡に行くんならこれを持って行きなさい」とくれた、靴をすっぽり包み込むゴムのカバーと、着脱式のスパイクも持参してきていた。ハイパー股引とあわせ、もう重装備どころか過剰装備と言ってよく、はっきり言って新幹線内では暑かった。このように、隊員の装備は、軽、重、過剰と、三段階に分かれ、後の比較対象におおいに寄与することが予想された。
そうこうしているうちに列車は長岡市に到着した。東京から1時間40分、おしゃべりしていたので、あっと言う間の印象だが、ビールが抜けるくらいの丁度よい時間でもあった。降りてみると、ものすごく寒いというわけではないが、「ああ、雪国の冷たい空気だなあ。東京よりちょっと寒いかな。」という感じであった。もっとも、この日は0度だったわけだから十分寒かったわけだが、恐れおののいていた分、思ったほどでもなかったということなのだろう。駅のベンチで靴カバー、スパイク、合羽を着て、大手口に移動すると、山間部ほどではないが、雪が降り、駐車場には雪が積もっていた。早速雪の前で記念撮影をした後、大手通を歩いた。私が住んでいた頃は、デパートが確か7つもあり、大変に賑やかだったのだが、今ではゼロになったそうで、目抜き通りなのにラーメン屋が並んでいたりした。長岡に限らず、どの地方都市もそうだが、郊外の大型ショッピングモールに押されて、従来の繁華街はどんどん寂れているようだ。唯一、大行列のお店があったので、何かと思ったら、「美松」のサンキュー祭りであった。松本楼の10円カレーみたいなもので、美松は年に一回、シュークリームを39円で売っていたのを思い出し、「40年たっても大手通でやっているのだなあ。美松がんばれ。」と感慨深くなったが、「でも40年前の39円って、そんなに安かったのかしら。」とも思った。
また、よく馬場さんがプロレスの興業で来ていた長岡厚生会館は、「アオーレ長岡」(「長岡で会おうれ」の意で、語尾にラ行が付くのが新潟弁。)という超立派な複合施設になっていた。思い起こせば、馬場さんは三条の出だからちょくちょく来てくれたが、猪木は来てくれなかった。何しろ新幹線がなかった頃は「特急とき号」でも上野から4時間もかかったのだ。プロ野球もセリーグは全然来てくれず、大抵、西武南海戦とか、パリーグの不人気球団同士だった。ちなみに、私は、悠久山球場で、「田淵幸一が二盗を試みて憤死」という、大変貴重なシーンを目撃している。
大手通を抜けるところまで歩いたが、どのバスに乗ったらいいのか分からなかったので、タクシーを拾い、裁判所へ向かった。三越タクシーの運転手平山さん(似てるが仮名)は60絡みの大変良い人で、雪を見に来たことを話したところ、心底すまなそうに「ここんとこ雪が少なくてね、申し訳ないね…」というような話をしきりにし、助手席の西岡隊員に「ここに三八(サンパチ)豪雪の記事があるから読みなさい。ホレホレ。」と朝日の朝刊を勧めていた。西岡隊員は、「サンパチってどういう意味でしょう」などとトンチンカンなコメントを発していたが、見れば三八豪雪の時は雪崩で228人が亡くなったそうで、やはり昔の方が格段に降雪が多かったようだ。「228人とはすごいですね。想像つかないですね。」等と反応すると、平山さんは、なおも「雪が見たいなら十日町に行きなさい。十日町なら雪まつりやってるからね。ねね。」としきりに勧めてくれた。熊谷でもそうだったが、遠来の客には雪国の降雪がこの程度のものだとは思って欲しくない、ということなのだろう。さらに西岡隊員には「あんた熊本の出かね。それじゃあれだね、八代亜紀だね。」等と、乗客の郷土のネタまで披露するなど、とにかくおもてなしの精神が旺盛な人なのであった。
メーターが1020円になったところで裁判所に到着した。平山さんによると、「駅から裁判所まで乗る弁護士さんは、まず滅多にいない。」ということであった。裁判所の周りには飲食店を含めて店舗は全くなく、お向かいには、小さな一戸建ての貸家が並んでいた。「貸事務所」と書いてあったから、法律事務所を意識しているのだろうか。「家賃は5万円くらいなのかなー」と言いつつお隣りを見てみると、「概Mネットワーク」が入っていた。何の会社か知らないが、あのロックバンドでないことだけは確かだ。裁判所の横には検察庁があったが、「どんだけ強度足りなかったんだ。」と思うほど念入りに耐震強度の補強がされており、検察庁本人が捕縛されているようで、なんだか気の毒であった。検察庁の敷地内に小さな団地風の建物が建っていたが、あれが官舎なのだろう。
裁判所前に戻り、雪の降る中で記念撮影をし、隊員一同で庁舎内に入った。外から見たときは新品同様かと思ったが、中はそんなに新しくもない感じで、築20年位と思われた。案内表示を見てみると、残念ながら食堂はなく、売店もなかった。支部の地下食は、立川にあるのが特別なんであって、ないのが普通なのかも知れない。それでも熊谷の時は、付近にカレー屋とうどん屋があったが、長岡は全くなく、一体お昼はどうしているのだろうか、印紙も買えないわけだから、近くに郵便局でもあるのだろうかとの疑問が湧いた。
幸いこの日は開廷日で、3時30分から刑事の公判が入っているようなので、それを見ることにしたが、それまで多少時間があるので、「そんじゃ、外に出て雪中行軍してみっか。」ということになった。
再び裁判所の外に出、右手にある信濃川の土手に向かった。長岡では喜んで雪中行軍する人などいないらしく、土手は未踏のまま我々の眼前にそびえていた。しかし、やはり関東の人間にはこの程度の積雪でも厳しかったようで、山本隊員は「うわ、冷たい。やっぱ革靴じゃ無理だー!」みたいな悲鳴を上げ、イケメン古関隊員は、「キャー、滑るー。登れなーい!」と叫びつつ、ついに頂上直前で動けなくなってしまい、傘がどっかに飛んで行ってしまった。プチ遭難だ。その両名をわき目に、アノラック上下の大輔隊員と、スパイクの隊長は「こんなの余裕ぅー。アンタたち何やってんの?」と憎まれ口を叩きつつ、やすやすと頂上にたどり着いた。会長、スパイクありがとうございました。なお、西岡隊員は熊本育ちで雪が珍しいのだろう、いつの間にか土手の上でキャッキャいって跳ねまわっていた。
プチ遭難の古関隊員も何とか登頂し終わった後、少し川下にある降り口まで移動することとした。土手の上の積雪は20cmくらいだろうか。風も雪も適度に吹きすさび、初心者向けの丁度良い雪中行軍となった。
軽装備の井上隊員と阿曽山氏は行軍に参加せず、下から写真など撮りつつ、降り口まで付いてきた。阿曽山氏は芸人なのに、必要以上に面白いことはしない人で、道中でも自分の興味の赴くまま、プイッと姿をくらます自由人なのだ。ちなみにその時、彼のツイッターでは、行軍の写真がアップされ「雪の中ではしゃいでるけど、この人たち全員弁護士…」という冷めたコメントが付けられていることは、隊員一同知る由もなかった。
降り口まで歩き、さらに信濃川の川面に降りてみたかったが、はるか遠くなのか、見ることすらできず、しかも「立入禁止」との看板も出ていたので、「雪中行軍はこれにて終了。十分堪能した。傍聴に戻ろう。」ということになった。
〜 その2終わり |